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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200701 Ⅱ列王記6:24-33 「みこころを祈ることから」

Ⅱ列王記6:24-33 「みこころを祈ることから」

 大変ショッキングな事件が記されています。ここまで凄惨な事件は聖書の中でも他に類を見ません。あまりの飢餓状態に、遂に、互いの子を順番に食べようと約束する二人の母親。けれど、一人の子は殺して食べたけれど、もう一人は子どもを差し出さない。それで子を失った方の母親がヨラム王に不平等を訴えるという事件です。平等、不平等、どちらが正しいかという問題の前に、子を食べようと計画する段階でもう二人共が狂っています。けれど、実は似たような出来事の記録は世界各国に残っておりまして、十字軍の遠征やアウシュビッツの強制収容所にも見られ、日本でも戦国時代の籠城戦の記録や、江戸の4大飢饉の折の記録にも残されています。もちろん、だからこの母親は珍しくないとか、間違っていないと言いたいのではありません。それは明らかに狂っています。けれど、この母親だけが特別なのでもありません。人は誰でも、そのような狂気に陥る可能性を持っているということです。戦争や飢えという極限の状況は、そのように人を狂気に変える力を持っているのです。これは私たちとて同じです。ですから、この箇所から読み取れるのは、母親をそのような狂気に追いやる当時の状況がサマリヤにあったということです。
 実は聖書が問題として取り上げるのは、そこではありません。母親は「王様、お救いください。」とヨラム王に訴えています。なぜなら、この状況を変えることが出来るのは、そして、この状況に責任があるのはヨラム王その人だからです。ところが、ヨラム王はこの母親の訴えに、悲しみ、憤ることはしますが、その責任を負おうとはいたしません。彼はその責任をエリシャに押し付けます。彼は母親に心を寄せて悲しむ被害者の面をしながら、エリシャ殺害を誓うのです。
 この背景には、ヨラム王のエリシャへの不信感というものが募っていたことがあります。これに先立って、エリシャは敵国アラムの将軍ナアマンを癒やしております。また略奪隊を捕らえたときには、王はこれを殺そうとしますが、エリシャはそれを押し止め、殺さないどころか、飲み食いをさせて国に返します。これらのエリシャの対応にヨラム王はかなり反感を持っていたようなのです。自分の思い通りにいかない勝手気ままな預言者。もちろん、神の人であるエリシャを無碍に扱うことはいたしません。けれど、王にすれば、預言者はいつまでも目の上のたんこぶ。面白くない。そして、今回の出来事。預言者の敵対国の者に対する弱腰の姿勢が、今のこの状況を招いているとエリシャに責任を押し付けるのです。
 言いたいことはわかります。ヨラム王の気持ちもわからなくない。けれど、今のこの惨状を招いた原因を他人事のせいにして、自らを省みないその態度は、果たして国のトップの王としていかがなものか。いえ、たとえヨラムが王でなかったとしても、このサマリヤにいる限り、そのような状況を招いた原因は誰しもが持っているのではないか。と、そのように思うのです。
 たとえば、日本の政治で何か重大な問題が起きた。スキャンダラスな事件が発覚した。すると、よくコメントとして出るのは、前の政権時代はもっと酷かった。という何ら問題を解決することのない責任逃れだったりします。けれど、もっと言えば、そんな政治に文句を言いつつも、現実には投票にすら行かない多くの有権者がいたりもします。考えてみますと自らの責任には見て見ぬ振りをして、他人の責任ばかりを責めるというのは、誰もが行っていることです。こんな教会はおかしい。うちの職場はこんなに酷い。学校は問題だらけ。けれど、そのコミュニティーを形成している一人は間違いなく自分だったりするわけです。もちろん、だからといって何が出来るというものではないかもしれません。サマリヤの状況はすでにヨラム一人にどうこうできる状況を超えておりました。けれど、主にひざまずくことはできる。神にすがることはできる。最悪の状況でも神への信仰に立ち返ることはできるはずです。置かれている状況に嘆くことはあっても、そのために祈りを積み重ねることはしない。これは責任を投げ出しているのと同じです。私が祈るのです。私がとりなすのです。もちろん問題を解決させる力は私たちにはありません。それは唯一神のみ心のうちにあるのです。だから私たちは今日祈ることから始めるのです。天のみこころが地でもあるようにとです。

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