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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200726 ルカ2:36-40 「老いてなお輝く人生」

200726 ルカ2:36-40 「老いてなお輝く人生」

 38節の冒頭「ちょうどそのとき」とあります。何のときか。それはシメオンが幼子を抱えて、両親を祝福した「ちょうどそのとき」であります。多くの人は宮の片隅で起きたその祝福劇に何の興味も理解も示しません。けれど彼女にはその祝福の意味がわかったのです。ではなぜ彼女にはそれがわかったのでしょうか。彼女が女預言者だったからでしょうか。それは半分正解で、半分間違いです。確かに彼女が女預言者だったから気付けたのです。けれど、それは肩書が、職務が、彼女の心を敏感にさせたのではありません。預言者とは神の言葉を預かって民に届ける者です。彼女はいつも真摯に祈り、いつも御言葉に触れていた。熱心に宮に通い、そこで語られる御言葉に聞き入っていた。だから気付くことができたのです。
 目の前で抱きかかえられる幼子が、たとえばイザヤ9:6-7の「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」という御言葉の成就であることがわかった。だから彼女は「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」のです。84歳であれば、アンナはもう目も見え辛くなっていたかもしれません。足腰も弱っていたことでしょう。色んな不自由を抱え、色んな限界を感じていた。けれど彼女の心に蓄えられた御言葉は色褪せることなく留まっていたのです。
 アンナはこの喜ばしい知らせを、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に語ります。幼子の誕生を語るのです。人々が待ち望んでいるエルサレムの贖いとはエルサレムの解放に他なりません。けれどそんな人々に、アンナは幼子の誕生を語るのです。日本という国に置き換えてみましょう。日本の贖いを待ち望んでいる人々。この国を憂い、この国が少しでも良い国に、素晴らしい国になるようにと願っている人々に、私たちは何を語るのでしょう。こうすればもっと幸せになりますよ。こうであればもっとこの国は過ごしやすい国になりますよ。ここを改善すれば外国にだって負けない強い国になれますよ。そういう声は巷に溢れています。けれど、それは問題の本質を捕らえていません。この国はまず神の前に贖われなければならないのです。ローマに支配されている状況を改善することが、エルサレムの贖いではありません。日本の経済を立て直すことが、病気を根絶することが、災害に負けない街づくりをすることが、この国の贖いではありません。イエス・キリストが罪を背負って身代わりの死を遂げられる。これこそが唯一の贖いであり、私たちはこの事実に心を痛め、へりくだり、感謝するしかないのです。だから、私たちはこの幼子の誕生を目の前の一人に語り告げなければならないのです。
 84歳になったアンナの語りがどれほど人々に届いたことでしょうか。もう大きな声も出せないでしょう。難しい話もできないでしょう。同じ話をごにょごにょと繰り返す、アンナの語りに、人々はどれほど真剣に耳を傾けたことでしょう。けれどそんなことは関係ありません。84歳にしてアンナは神の使命を受け取り、それに応答するのです。人生の晩年になって、ずっと願い求めてきた約束の成就を経験するのです。主に従う者の人生は老いてなお輝くのです。
 老いていく自分を、必要のない者と思ったりはしてないでしょうか。役立ずになっていくと諦めてはいないでしょうか。確かに姥捨て山だとか、そういう考えがこの国には根強くあります。けれど、それは事実ではありません。神は年老いて白髪頭になったとしても、決して捨て去ることはありません。考えてもみてください。当時アンナの話をまともに聞いた人がどれくらいいたかはわかりません。けれど、彼女の存在は救い主誕生の確かな証言として、現代に至る全てのキリスト者が知るところとされたのです。イグナティウスもアウグスティヌスも、ルターもカルヴァンも、キング牧師も、皆、このアンナの存在に、救い主誕生の成就を確信したのです。もちろん、私たちの存在も後の世代に用いられるのです。主に従う者の人生は老いてなお輝きます。主は私たちの人生を最後まで意味あるものとしてくださいます。御言葉を蓄え、祈りの日々を過ごす。私たちのその日々の繰り返しが、主の到来に気付かせ、主の使命に立ち上がらせるのです。

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