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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/08/09 ヨハネ2:23-25  「しるしを誇らず」

ヨハネ2:23-25 「しるしを誇らず」

 過ぎ越しの祭の一週間、イエス様はエルサレムで多くのしるしをお見せになりました。そのおかげで、多くの人々がイエス様を信じました。ところがです。イエス様の方では、彼らのその信仰を信じてはいませんでした。ここで「お任せにならなかった」と訳されている言葉は、「信じた」という言葉を否定した言葉です。ですから直訳すると「信じなかった」という意味です。
 なぜエルサレムの人々の信仰は、イエス様から信じられないのでしょう。それは彼らが、しるしを見て、信じた。からでしょう。一方で、カナの人々は、主イエスの栄光を見て、信じたのです。この二つは一見同じように思えますが、実は大きな違いがあります。エルサレムの人々の関心は「しるし」でした。どんなに不思議なことがなされたか。この一点にありました。しかし彼らは肝心のイエス様を見ません。彼らにとってしるしさえあれば、それがイエス様じゃなくても良かった。「しるし」があれば、金の子牛ですら神の使いだと言って信じたことでしょう。
 イエス様は「しるし」を見せられます。病の人を癒やし、悪霊を追い出します。それはもちろん、目の前にいるその人を憐れんで、助けてあげたいと思って、なされるわけです。けれどです。イエス様はただ単に病を癒し、悪霊を追い出すために「しるし」を、奇跡をされるのではありません。その「しるし」を通して、人々が神の栄光を褒め称えるために、まことの神への信仰を取り戻すためになされるのです。小手先だけの癒やしではないのです。イエス様が見ておられるのはその人の「魂」です。ですから「しるし」だけを見て、「わーすごい。」「イエス様さすが」と喜んでいるだけでは事の表面しか見えていません。「しるし」を見て、畏れるようでなければ・・・。今、イエス様はご自身が人ならぬ栄光の主であることを、「しるし」をもって明らかにしてくださったのです。つまり、人々は主の栄光の前に立たされている。このことの意味をよくよく考えなければなりません。イザヤは主の栄光を前にして「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と言ってひれ伏しました。これこそ信仰者の姿ではないでしょうか。「しるし」は主の栄光を表わす手段です。けれど、「しるし」だけに目を奪われることがある。そうすると、主のみこころがぼやけてしまうのです。
 さて、エルサレムの人々は、イエス様のしるしを最初から期待していたという側面があります。宮清めの出来事で一躍有名人になったイエス様に対して、この人々は、それだけのことをするなら、いったいどれほどのしるしを見せてくれるんだ?と期待していたのです。私たちを驚かすようなしるしを見せてくれたなら、あなたのことを認めてあげるよ。イエス様のしるしをある種のパフォーマンスのように理解していたのです。自分たちの気に入る見返りがあれば信じますよ。これが「しるし」を求める信仰です。しかし、それは本当の信仰とは言えません。イエス様は言われます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)
 しかし、一方で、完全に「しるし」なく信じることができるのだろうかとも思ったりします。イエス様の側で誰よりも身近にいた弟子たちですら、そのみこころを完全に知ることはありませんでした。ましてや、2000年も経つ私たちが「しるし」なく信じられるのかとも。しかしです。私たちには「しるし」が与えられているではありませんか。十字架と復活です。これこそ主が私たちに与えてくださった何よりの「しるし」です。

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