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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200729 ルカ12:35-48 「特別を日常に替えて」

200729 ルカ12:35-48 「特別を日常に替えて」

 主人の突然の帰宅に備えるように。という、たとえ話が語られています
 当時のユダヤでの婚礼は1週間も2週間も続いて、入れ替わり立ち替わり客が訪問し、客は好きな時に帰宅したそうです。そのため主人が婚礼からいつ帰ってくるかはしもべたちにはわかりませんでした。真夜中に帰ることがあれば、夜明けに帰ってくることもある。それはもう主人の気持ち一つなのです。その上で、たとえ話では、主人が帰ってくるときに目を覚ましているところを見られるしもべたちは幸いだと言ます。なぜなら、そのしもべたちは主人の振る舞う食卓に着かせてもらえるからです。だから主人の帰りに対しては、どろぼうに備えるのと同じかそれ以上に用心して備えなさいと言うのです。
 しかしです。では実際に、主人が真夜中に帰ってくるとき、主人はしもべたちに起きていることを強要するでしょうか。主人自身は真夜中に帰ることの非常識を理解してはいないのでしょうか。幾ら主人が帰ってくる可能性があるとしても、真夜中に寝ているのは非難されるべきことでは無いようにも思います。真夜中に寝ているのは当然なのです。それでも起きて主人を迎えるしもべは確かに褒められ食卓に預かるのでしょう。だからといって、真夜中に起きれず明け方に主人の帰りに気付いたとして、それを主人が咎めるでしょうか。実はこの例えは眠らないようにと勧めている例えではありません。再臨に備えるキリスト者のあり方を教える例えです。人の子は思いがけない時に来る。これがたとえ話の中心テーマです。
 41節から、よくわかっていない様子の弟子たちに、イエス様はもう一つ忠実な管理人のたとえ話を語られます。主人の帰宅に用意をせず働きもしなかったしもべは厳しく罰せられる。ここで非難されているのは、「主人の帰りがまだだ」と心のなかで思い、好き放題にする慢心です。
 いつ帰ってくるかは主人の心次第です。婚礼であるなら1~2週間で終わります。その間に主人は帰ってくることは決まっています。ならば寝ずに待つこともできるかもしれない。完璧な応対で主人の帰りに備えることもできるかもしれない。けれど問題は主の再臨は、2000年起きていないということです。その人の生涯に起こるかどうかすらわからないのですから、「主人の帰りがまだだ」と思わなくもない。このような主人を待つしもべのあり方はどういうものでしょう。夜も寝ずに備えるなんてことはできるはずもないし、主が望まれていることでもありません。そうではない。いつ帰って来られても、非難されることのないように、毎日に緊張感を持って過ごす。主人を意識して過ごすということに尽きます。
 いつ帰ってくるかわからないということは、今晩帰るかも知れないということです。もしも今晩帰ってくるとしたら、その日の過ごし方は必ず変わってくるわけです。主人の帰宅に精一杯備えておく必要があるのです。食材さえあれば、急な来訪にも食事を提供できます。普段から掃除していれば、いつでも家に客を招けます。ろうそくがストックされてさえあれば、主人の帰りに慌てて借りに行く必要もないのです。備えのある人とない人の違いは、ちょっとの意識をそこに持てるか持てないかにかかってくるかだと思います。主は再びやって来られる。これは動かすことのできない事実です。しかし、いつかは聞かされていない。なぜ聞かされていないのかということに、主のみこころを見て取らなければなりません。
 家庭訪問と同じです。いつ先生が来るとわかっていれば、その日に備えて掃除をし、お茶菓子を用意し、万全の体制で待つことができます。けれど日程がわからなければ、計画して特別の準備をすることは適いません。つまりイエス様は私たちが特別のその日を計画し備えるのではなく、特別を日常に変えて、代わり映えのない今日を主のみこころに沿えるようにしなさい。と命じておられるのです。来客予定で仕方なく掃除をする。やってる時はとても面倒なんですけれども、やっぱり綺麗になった部屋は自分にとって心地良かったりします。再臨に備えて日常を備えること、主に従って生きる人生は、あるいは面倒に思えるかも知れません。不自由に感じるかも知れない。けれど実際は御言葉に聞き、祈りと共に過ごすその毎日は、私たちにとって間違いなく心地の良い日常をもたらします。困難の中でも揺らぐことのない喜びと感謝をもたらすのです。

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