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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200809 ルカ3:1-6 「悔い改めのバプテスマ」

ルカ3:1-6 「悔い改めのバプテスマ」

 イザヤ40:3-5には「荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。このようにして【主】の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことに【主】の御口が語られる。」」とあります。またマラキ3:1では「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の【主】は言われる。」とあります。
 再び神のことばが語られるとき、主が来られると言うのです。預言の再開とは、他でもない救い主の到来を意味するのです。だから人々は驚いたし、ヨハネのもとに駆けつけたのです。そして、そのヨハネの口から語られる「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」に驚いたのです。
 ヨハネはイエス様の前に遣わされた「道を備える者」です。イエス様の前に、彼が遣わされたことには意味があります。それは罪の赦しに先立って、悔い改めが必要であるということです。しかし当時のほとんどのユダヤ人にとって、悔い改めるとは自分たちのことではなくて異邦人がすることでした。悔い改めるとは神に立ち返ることです。しかし彼らユダヤ人は、自分たちが神の民であるとの自負から、まさか自分たちの方が神から離れているとは思い至らなかった。しかしヨハネはそのようなユダヤ人に向かって悔改めるようにと説いたのです。
 なぜでしょうか。それは続く7節にあるように、全ての者は「まむしの子孫たち」だからです。罪を引き継ぐ者だからです。神の民だろうとなんだろうと、罪人だとヨハネは言うのです。全ての者は罪人であり、滅ぶべき存在。これは、その人がどのような人格だとか、功績を残してきたとか、そういったことでどうこうなることではありません。ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、金持ちであろうと、貧しい者であろうと、どのような者であれ、神の前にはその存在がすでに罪なのです。もちろん今に生きる私たちも同じです。
 「あなたは罪人です。」と言われて、反発を覚えるかもしれません。けれど罪によってもたらされた結果には思い至るところではないでしょうか。つまり人は罪の結果、創造の神との関係を失い、その造れた当初の目的を失ったということです。造られたものは、造った方の目的に沿って初めて意味あるものとなるのです。海の真中で時計が時を刻もうと、それはもうあって無きが如しです。ですから現代人が「生きる意味がわからない」と悩み、「自分には生きている価値がないんじゃないだろうか」と迷うのは当然のことです。何をやろうと、どのような者となろうと、本来願っていた神の目的から離れては、そこに真の充足はありません。あるのは空しさだけなのです。
 この世界の初めに、神と人の間で交わされた契約が破られました。この人から生まれた者は皆、契約が破られたままで生まれてくることになります。ですから私たちを待つのは、罰である永遠の滅びです。これはもう、その人の性格が云々という次元の話ではないのです。私たちがこの滅びを避けて祝福の内に入れられたいと願うなら、どうやっても拭うことのできない空しさを真の充足で満たしたいと思うなら、それはもう一度契約を結び直すしかありません。それこそがキリストの贖いによって結ばれた新しい契約であり、このキリストを迎える道備えこそがヨハネの説く悔い改めなのです。
 人は自らの罪に気付かずして、このイエス様の救いを受け取ることはできません。溺れている人に幾ら手を差し伸べたとしても、その人が手を握り返さなければ助けることはできません。しかし、そもそもの話、その人が溺れていることに自覚していなければ、その人は手を伸ばすことすら無いのです。認めましょう。私たちは溺れているのです。私たちは空しさを抱えています。私たちの内に救いはありません。ただキリストだけが私たちを神の前にとりなすのです。

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