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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200816 ルカ3:7-14 「悔い改めにふさわしい実」

ルカ3:7-14 「悔い改めにふさわしい実」

 イエス様が群衆に向けられた言葉は、マタイの福音書によると「大勢のパリサイ人やサドカイ人」に向けられた言葉だと記されています。けれどルカはこれを敢えて群衆と記します。何気ない違いですが、ここには二人の聖書記者の焦点の違いが記されています。マタイ3:5-6には「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とありますから、そもそも、その場にはあらゆる地域から集まった人たちがおったわけです。それこそ、パリサイ人もサドカイ人も、異邦人も罪人も大勢です。ですから、その言葉は焦点を絞ればパリサイ人やサドカイ人に向けられた言葉であり、俯瞰して見れば群衆に向けられた言葉と言えるのです。ルカの福音書は異邦人テオフィロに向けて書かれたものです。ローマ人であるテオフィロにとって、パリサイ人もサドカイ人も違いはありません。それよりも色んな人たちがヨハネの下に集まったということが大事です。そしてその色んな人たちが等しく糾弾されているということが大事です。なぜなら、ルカはこれを読む異邦人テオフィロに対して、あなたもこの群衆の一人なんですよ。と伝えたいからです。ルカという人は、イエス様をユダヤ人の救い主としてではなくて、全人類の救い主という視点で振り返っているのです。この群衆の中には色んな人がいました。色んな立場の人、色んな国の人、色々な事情を抱えた人。人々から尊敬されている先生や商売人。独身の者や、やもめとなった者、持病を抱えている人、金持ちに貧乏人。けれど、その一人ひとりをまとめ上げて、あなたたち誰もが「まむしの子孫たち」だ。と、こう糾弾するヨハネの姿を記します。これを読んでいるテオフィロにも、あなたも例外では無いんだと伝えます。そして今これを読む私たちにも、あなたは「まむしの子孫」だと鋭く指摘しているのです。
 ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と言っています。彼らのほとんどが「『われわれの父はアブラハムだ』と考えておりました。まむしの子孫ではなくて、アブラハムの子孫だと誇っていた。だから私たちは大丈夫と安心しておりました。けれどヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と警告します。アブラハムは確かに偉大な信仰者ですが、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」どちらに目を向けるべきかは明らかです。アブラハムの約束が彼らを救うのではありません。アブラハムと約束した神が救うのです。ですからその神を裏切るなら、その者が救われるはずはないのです。
 今人々はヨハネの下に集い悔い改めのバプテスマを受けようとしています。それは言うなれば、今までの生活に「ごめんなさい」と表明する儀式です。けれどヨハネは、その「ごめんなさい」は本心ですか?と問うています。口だけじゃないですか?表面だけ取り繕ってるんじゃないですか?なぜなら悔い改めとは、悔い改めの実を結ぶものだからです。その人の生き方が変わることを意味するからです。あなたは本当に生き方を変える覚悟はありますかと問われているのです。
 けれど、そのように言われれば、私たちは構えてしまうかもしれません。良い人になれ。と言われれば、それがどれだけ難しいことかを私たちは知っています。けれど、そんなに大層なことが求められているのではないのです。ヨハネは言います。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」また取税人に対しては「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」と言い、兵士たちには「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と言っています。持っているものを満足して用いよと言うのです。決して、持っていないものを差し出すようにとは言われてません。私たちにない愛を絞り出して、分け与えよと言っているのではないのです。主がご自身を差し出して、私たちを赦してくださったのです。もう捨てられてもおかしくない。もう子どもでいる資格はない。身を切られる覚悟で御前に出ると、イエス様は私に駆け寄り、口づけし、指輪を付けて宴の用意をして言われるのです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」この愛を分け与えよと言うのです。これは主イエスの前に悔いる者だけができる生き方です。主イエスの愛を分かち合う生き方です。ですから、もしも分けることに惜しむなら、友のために時間を惜しみ、労力を惜しむなら、それは主イエスの愛が枯渇しているのかもしれません。必要なのは、主イエスの赦しに与ること。そのためにも、私たちにはきちんと悔いることが必要なのです。

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