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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200823 ルカ3:15-17 「聖霊と火のバプテスマ」

ルカ3:15-17 「聖霊と火のバプテスマ」

 人々はヨハネを「もしかするとこの方がキリストではないか」と考えました。それだけヨハネの言葉には力があったのです。一人ひとりの心に鋭く突き刺さる何かがあった。けれどヨハネは、自分はキリストでは無いと語ります。その方は別にいるとです。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」主人の履き物のひもを解くのは奴隷の仕事です。それも外国人の奴隷にだけやらせるような、ユダヤ人にとっては特に嫌われた仕事。自分はその方の奴隷になる資格すらない。とヨハネは言うのです。いやいや、ヨハネという人は当時のユダヤ人に相当なまでに影響を与えた人物です。使徒の働きでは、ヨハネのバプテスマを受けたユダヤ人が遠くエペソにまでいたことが記されています。国の内外を問わず、大勢の人々がヨハネのもとに駆けつけるほどに影響力を持った人物です。そんなヨハネが「私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。」と言うのは、その方がよっぽど凄い方だということです。
 なぜなら「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし・・・その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられ」るからです。水のバプテスマに対して、聖霊と火のバプテスマ。ヨハネが水で授けたバプテスマは罪の赦しに導く(ための)悔い改めのバプテスマでした。ではその方が聖霊と火で授けるバプテスマは何に導くバプテスマなのでしょう。結論から申しますと、それは終わりの時の恵みと裁き。2つの決定的な結末へと導くバプテスマだと言うのです。
 ヨハネは「また手に箕(み)を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」と言っています。日本では「箕」と訳されるこの言葉は、ユダヤでは脱穀した実と籾殻を選別するための道具です。脱穀した麦をシャベルのようなもので空中に放り投げると、風によって籾殻は飛ばされ、麦だけがその場に落ちます。これを何度も何度も繰り返して、最終的に麦と籾殻の選別をするのです。もちろん、これは比喩表現です。麦と籾殻を選別するように人類の選別がなされる。キリストは終わりの時に、人々をご自分の倉に納めるか、それとも消えない火で焼き尽くすのか、選別されるのです。
 つまり救い主とは裁き主なのです。これは驚愕の事実ではないでしょうか。普通救い主と聞きますと、私たちを日常の困難からいつも私を守り、私のために戦ってくれる。ちょっとしたヒーローのようなイメージを持つのではないでしょうか。彼らもそう思っていたわけです。ローマ兵を打ち払う救世主の登場を期待しておりました。ところが救い主は裁き主なんだと。悔い改める者を天の御国に迎えられる一方で、悔い改めない者を徹底的に滅ぼされるお方なんだと。そしてそこには例外はなく、私もあなたもその対象に他ならないんだと。こうヨハネは言うのです。本当の救い主を前にすれば、人はもうどちらかでしかいられなくなる。聖霊か火か。では、あなたはそのどちらに身を委ねるつもりなんですか。ヨハネの言葉は、当たり前のように助けてもらうつもりでいた私たちに、そうじゃなくて私たちこそ裁かれる対象なんだと気付かせるのです。
 さて、ヨハネは麦と籾殻の譬えを用いて、最終的な選別の事実を語りました。けれど、このことは、その最後の選別の前、麦はまだ脱穀の作業中であるということでもあります。脱穀は平たい岩の上に敷き詰められた麦の穂を、棒で打ち、砕いて、中身と籾殻を分離させる作業のことです。ふるい分けられる前に、麦は痛い思いをして脱穀されるのです。そして私たちの地上の生涯はこの脱穀に例えられるのです。それは来る審判を前にして、私たちの地上の歩みは痛みを伴った試練の歩みであるというのです。聖書は地上での試練を否定しません。どれだけ熱心な信仰者であろうと困難や理不尽に直面いたします。けれど、それは神の罰ではないのです。私たちは根本的に罪人ですから、試練のない人生では神を失うのです。困難にあって初めて、主を仰ぎ見るのです。神はそれをご存じなので、私たちに試練を与えます。私とともにあれ、私の下に帰ってこい。あなたに用意した天の祝福を受け取りに来い。私たちに試練を与えられる神は、未だ私たちの選別の時を待っていてくださる神です。この試練は父ゆえの鞭です。やがて受け取る栄光のための備えなのです。

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