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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200819 ルカ19:41-48 「強盗の巣」

ルカ19:41-48 「強盗の巣」

 このところは、イエス様が生涯の終わりに上られたエルサレムを前にしての出来事から始まります。エルサレムの城壁を見上げながら、イエス様はこの都のために泣かれます。これは余程のことです。いったい何を思って泣かれたのでしょう。このエルサレムで背負うご自身の十字架を思ってのことでしょうか。そうではありません。イエス様は言います。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」エルサレムという町が、そしてその町に住む者たちが滅ぼされる。それは彼らが、真に平和に向かう道を知らないからであり、彼らが神の訪れの時を知らなかったからです。神の御子イエス様が人となって来られたのです。にも拘わらず、誰もその訪れに目を向けようとしない。その言葉に耳を傾けようとしない。いや、その訪れすら気付いていない。しかし、それは知らないでは済まされないのです。彼らは知らないがゆえに、叩きつけられるのです。無知のゆえに残らず滅ぼされるのです。その現実にイエス様は涙されたのです。
 では神の訪れを知らない彼らはどのような信仰生活を送っていたのか。ルカは続けてイエス様の宮清めの様子を記します。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」イエス様のこの言葉は、エレミヤ書7:11の言葉です。このエレミヤ書の言葉は2節から順に読むとよくわかります。主の神殿という空しい言葉に寄り頼んで、ここに来さえすれば「救われた」と言うユダヤ人に向けて、それはまるで強盗の巣だ。と主の嘆きの言葉があるのです。日常生活の不正や不義を脇に置いて、神殿に来さえすれば救われると豪語する彼らの信仰の在り方に、主はモノ申しているのです。
 洗礼を受けているから救われている。それはある意味で正しいのでしょう。けれど、割礼を受けたユダヤ人に向けて、イエス様はその日常にどれほどの誠実があるのかと問われています。礼拝があるのかと問われています。「あなたがたの生き方と行いを改めよ。」と言われるのです。私たちは救われた民として、神のみこころに生きる責任があります。日曜日に教会に来さえすれば、平日どのような者であっても構わない。意識的か、無意識かは別として、私たちにはどこか、そのような思いがないでしょうか。こんな私でも救われている。これはもちろんそのとおりです。こんな私でも救われている。けれど、この救いに胡坐をかいて罪に対して開き直るとするなら、自分たちの平素の振る舞いに恥じることもなく教会に来て恵みを与えたまえと迫るなら、それは恵み泥棒と呼ばれても仕方がありません。
 神殿は商売人たちで溢れていました。それは偶像の神々の絵柄や皇帝の顔が刻まれたコインが献金として相応しくなかったために、献金に適したコインに両替する両替商や、生贄とする動物を売る商売人が店を構えていたのです。それは人々の信仰生活にとってとても便利な方法でした。神殿は潤い、巡礼者は手ぶらで参加できる。WinWinの関係でした。けれど、そこに行きさえすれば良い。という楽を優先するその信仰の姿勢がやはり問題なわけです。生贄は前もって準備することに意味があります。問われているのは、心だからです。
 献金をする時に財布を開いたら10000円札が一枚と10円玉だけが入っていた。これ悩みますね。どうしよう。10000円を捧げたら、明日からの生活に苦しい。かと言って、何の痛みもない10円を捧げていいものか。悩んだあげくに10000円を献げる。神さまに献げるものだから、神さまがそれ以上に与えてくれるに違いない。その人なりの信仰によって思い切って献げるのです。けれど聖書から言えば、そもそも献げることに備えていない段階で、それは本当の意味での献げものとはなっていないのです。
 生贄の準備すらしないで、罪の悔い改めすらしないで、ただ神殿に行けば全てが揃い、生贄が受け入れられる。救われる。こういう見せかけだけの信仰の在り方を強盗の巣と主は言われています。私たちの信仰生活はどうでしょうか。神殿での公の姿が問われているのではありません。むしろ問われるのは、主に対する日常の誠実です。見えないところが求められているのです。

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