FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

200913 ルカ3:23-38 「神の子の系図」

ルカ3:23-38 「神の子の系図」
 今日の箇所の冒頭には「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。」とありました。ちょっと意味深な書き方です。「ヨセフの子と考えられていた。」という表現は、本当はそうじゃないんだけどね。というニュアンスの言葉だからです。けれどイエス様はヨセフの子。これは紛れもない事実ではないでしょうか。赤ん坊のイエス様を抱きかかえ、毎年過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに連れて行ったのは他でもないヨセフであります。大工仕事に手解きを加え、日々の食事に祝福を祈り、イエス様の成長はヨセフの存在あってのものです。ナザレに住んでいる者は誰もが父ヨセフの後をちょろちょろと付いて回る幼いイエス様の姿を見ているのです。ですから、人々はイエス様のことをヨセフの子と考えていた。これはごく当たり前の反応なのです。
 けれどルカは、本当はそうじゃない。と言うのです。ルカは人々から「ヨセフの子と考えられていた」イエス様とは本当は誰の子なのか、「ヨセフはエリの子で、さかのぼると、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、云々」と順々に辿って行きまして、それは「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る。」と記します。ルカは決してこれをアブラハムの系図とは見ません。それは神の子の系図です。アブラハムの契約によって始まる神の民イスラエルの歴史ではなく、アダムまで遡る人類の歴史という枠組みでルカはイエス様の登場を記します。それは救い主の到来が、人類の罪に由来していること。初めの人アダムの罪の清算として、イエス様が来られたということを意図しているのです。そして、それはアダムから連なる全ての人類の罪の清算として来られたということを意図しているのです。
 ローマ5:17でルカの師匠であるパウロは「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」と言っています。キリストの福音がアダムまで遡る罪の贖いだとするならば、私たちはこれを他人事として聞き流すわけにはいきません。イエス様からアダム、そして神に至るこの系図は、逆にたどると、実際は一本の系図ではなくて人類の数だけ枝分かれして生い茂った樹木図です。この大元が毒されているならば先端まで毒は回るのです。枝葉を幾ら治療しようとも効果はありません。毒されている大元を治療しなくては。そして、大元を治療するならば枝葉も回復するのです。イエス様はこのために来たのです。アダムの罪の贖いとなることは、人類の罪の贖いとなることです。私の罪の贖いとなるのです。
 イエス様はぶどうの木に例えて言われました。ヨハネ15:5-8「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」アダムに連なる私たちは、贖われ、キリストに接ぎ木されました。キリストの幹に連なる限り、私たちは多くの実を結ぶことになります。けれど、この幹にとどまらないなら、その人は枝のように投げ捨てられて枯れるのです。私たちはキリストにとどまりましょう。それはキリストのことばにとどまるということです。キリストのことばには私たちを強め、再び立ち上がらせる力があります。賜物の実を豊かに結ばせる秘訣があります。迷ったとき、道が閉ざされた時、心が荒れすさぶ時、私たちは本当にキリストのことばに聞いているでしょうか。祈りの内に静まっているでしょうか。本当に必要な時ほど後回しにしてはいないでしょうか。人の言葉に慰めを得ようとしても叶いません。慰めも力も一切は主のことばの内です。

コメント

非公開コメント