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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200923 エレミヤ4:19-31 「叱責の裏で」

エレミヤ4:19-31 「叱責の裏で」

 今日の箇所の前後を少し見て見ましょう。5-9節で神はユダとエルサレムに向けて北からのわざわい、大いなる破壊をもたらすと言います。だから自分の身を守れ。城壁のある町に逃れよ。と警告されています。10節、これに対して、エレミヤは神がかつて約束された平和を持ち出して訴えますが、神の回答はさらに激しい裁きのお告げでした。それは北からの軍勢。唯一逃れる道は、悪から心を洗いきよめることだと言われます。「自らの反逆の心を探れ」と神は言われるのです。18節には「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」とあります。神にすがるにはもう時期を逸しています。あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。こう言わざるを得ない父なる神の痛みとはいかほどでありましょう。
 今日の箇所である19節からで、エレミヤはあまりにも厳しい神の裁きの宣告に、はらわたを悶えながら、悟ります。神の怒りと悲しみの前に、もはや裁きを逃れる手立てがないことをです。彼の目に見えるのは、荒野と化すユダの町々の様子。そこには人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていました。もはやこの裁きを受けることで、せめて民が目を覚ますことを願うばかりのエレミヤです。彼の内に残されている一縷の希望は「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」という神のことばのみです。
 5:1-2 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。彼らが、【主】は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」主の裁きを謙虚に受け止めることが、どれほど大事であるかが教えられます。「主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」私たちは神の愛を盾にして、どれほど自らの生き方に甘えを持っているでしょうか。主の怒りは、主の腹立たしさであり、主の歯痒さであります。なぜ気付けないのか。なぜ焦らないのか。なぜ叫ばないのか。戦争も、疫病も、災害も、それ自体を主の怒りのゆえと言うことは簡単ですが、乱暴だし、言うべきでないのかもしれません。けれど、あらゆる災いや試練の中で自らの歩みを省みることに、信仰者は謙虚で思慮深くなければならない。と教えられるのです。
 5:11-13に「実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──【主】のことば──彼らは【主】を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。自分に神の裁きが向けられていると認めることは本当に難しいことです。そしてそのことに気付いて本気で自分を変えようとすることは尚難しいです。けれど、見て見ない振りをしても、そこには何の解決もありません。見たくない現実に聞きたくない忠告。それを認め、それに真摯に耳を傾けることこそが、主への従順の第一歩です。厳しい口調の裏に秘められた主の眼差しを忘れてはいけません。主の愛は見ない振りをする愛ではありません。見放す愛ではありません。
 エレミヤ31:20 「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば──」主の裁きの声にエレミヤは、はらわたを悶えて悲しみました。けれど、はらわたをわななかせ、あわれんでおられたのは他でもない主ご自身なのです。私たちに向けて語られる叱責の裏で、どれほど主が私たちを憐れみ、惜しんでおられるか。私たちはその主の御旨を理解して、謙虚に主の言葉に自らの生き方を照らし合わせて行きたいと思うのです。

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