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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200927 ルカ4:14-21 「主の霊を受けて」

ルカ4:14-21 「主の霊を受けて」

 14節15節でルカはガリラヤ伝道がどのように人々に受け取られたのか、その総括を最初に記します。それは「評判が周辺一帯に広まった。」「すべての人に称賛された。」のです。イエス様はガリラヤにおいて、イエス様が御霊の力を施すと、たちまち人々の評判となり、イエス様が会堂で教えられると、たちまち全ての人に称賛されました。イエス様のなさること、語ることに人々は拍手喝采。5千人給食の話や4千人給食の話でもわかるように、人々はガリラヤ全土からイエス様の下に駆け付ける次第でした。けれど、彼らの内どれほどの人がイエス様の伝えた内容を理解してことでしょう。実は多くの人がイエス様の語る本当の意味は理解できなかったのです。その最たるがこのナザレでの様子に記されています。このナザレでの出来事は言うなれば、ガリラヤ人の縮図、いえ、ユダヤ人の縮図です。なぜあれほどまでにユダヤ人を熱狂させたイエス様の教えが、イエス様の死後、ユダヤ人ではなくて、彼らが異邦人と蔑んだ人々の間で広まっていったのか。ルカは、このナザレの様子を通して伝えているのです。
 すでにガリラヤで評判になっていたイエス様は、ナザレの会堂で預言書の朗読と奨励を頼まれます。その日の聖書日課はイザヤ書でした。イエス様は分厚いイザヤ書の巻き物を受け取って朗読いたします。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」人々はこの御言葉を額面通りに喜び驚いたのです。5千人給食の評判を聞いていた民からしたら、これは食べることを保証してくれているように聞こえたでしょう。また、ローマからの独立解放を願った人には、イエス様の勇ましい姿が期待されたことでしょう。治らない病を負っている者たちにとって、イエス様は最後の希望として映ったでしょうし、さらには、何の希望も持てない犯罪者たちすらにとっても、これは光指す言葉でありました。ですから、それぞれの弱い立場にいる者たちが、このイエス様の言葉にどれだけ希望を見出し興奮したことでしょう。
 けれどです。イエス様がおっしゃられた意味は果たして彼らが望んでいたものと同じだったのでしょうか。確かに、イエス様はそれらの人々に応えるべく様々な奇跡を起こされました。病人は癒やされ、貧しい者は満たされ、捕えられていた者は解放され、虐げられていた者は自由とされました。けれど、そこがゴールではありません。イエス様はただ単に人々の要望に応えるために来られたのではありません。それらの奇跡を通して、人々の心が再び神に立ち返るためであります。ですから、病気の癒やしや悪霊からの解放などはあくまでも切っ掛けの一つであって、イエス様はそれによって人々が神との関係を取り戻すことを望まれたのです。そしてまさにこれら「主の恵みの年を告げるために」、わたしは遣わされたのだ。とこうおっしゃる。つまりイエス様が最も強調したいことは、これらの働きのために、わたしは主の霊を受けて遣わされた。というその使命でありました。イエス様は単にご自身の意思で来られたのではなくて、父なる神から遣わされ、油注がれて来られたのだとおっしゃるのです。
 考えて見ますと、ルカは、イエス様が聖霊によって宿り、バプテスマを受けたとき天が開けて聖霊が降り、降りられた霊に導かれて悪魔の誘惑に立ち向かい、今また御霊の力を帯びて、良い知らせを伝えるべく遣わされるのだと記しています。つまりルカは一貫してイエス様の働きは全て聖霊と共にあった。ということを記します。そして、今その霊は、教会に降り、信仰者一人ひとりに降られるのです。ルカはイエス様の特別の使命とそれを成し遂げる根拠を聖霊によると解説し、その聖霊が私たちを共におられる。とこう語るのです。テオフィロはキリスト者の殉教すら厭わない真っ直ぐな使命感に興味と疑問を持ったことでした。何が彼らをそのように生かすのか。その答えは神の使命のもと、イエス様といつも共におられた聖霊が、信じる者と共にあるからだとルカは語るのです。
 パウロは第Ⅰコリント2:4で言います。「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」どれだけ言葉が巧みでも、御霊と御力の現れによらなければその言葉は届きません。ですから、その言葉には祈りが積まれていなければなりません。その言葉には神への信頼が無ければなりません。何より、その言葉には救いの確信が無ければなりません。ですから私たちが主イエスを見て、主イエスに聞いて、その救いの確信を増し加えるのなら、私たちの言葉には力が宿るのです。

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