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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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200930 エレミヤ8 「懲らしめに込められた思い」

エレミヤ8 「懲らしめに込められた思い」

 今日のところの冒頭で、主の裁きの行き着く先が記されています。「人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、エルサレムの住民の骨を、墓から取り出し、それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。」とありますが、罪に対する責任は死んだ者にまで及ぶと言うのです。また、生き残っている者は全ての場所で死を選ぶようになるともあります。死んで責任を取るという考えがありますが、それでは何の責任も取れないと神は言われるのです。それらは責任を放棄することでしかなく、責任を取ることでは決してありません。罪ある者はむしろいのちを選ぶことでその責任を取らなければならないのです。けれど、人々は自分の好き放題に生き、その責任が問われれば、今度は安易に死を選ぶようになる。あまりに辛い現実に死んで逃れようとするのです。けれどその裁きは死して後も問われます。永遠の神への反逆は永遠の刑罰を意味するからです。
 4節から13節。裁きをもたらさざるを得ない主の嘆きが語られます。それはどこまでも立ち返ることのない民へ向けられた主の痛み。悲しみ。18節で「私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。」とエレミヤの心境が綴られていますが、それは同時に主なる神の心境に他なりません。「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰ってくるものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。」起き上がれば、帰ってきさえすれば。背信を悔い改めさえすれば。その先は言わずもがなの話です。放蕩息子を送り出した父の心境です。父はその日からずっと息子が帰るのを待ち続けました。ただ赦すために。ただ受け入れるために。主の裁きは赦すことを前提にしています。どのように厳しい裁きも、その者が立ち返ることを望んでのこと。それは全て愛から来ています。にも関わらず、一向に帰ることをしない民。「自分の悪を悔いる者は、一人もいない。」「鳥すらも自分の帰る時を守る」というのに。「しかし、わが民は主の定めを知らない。」
 そこには「平安だ、平安だ」と、安易に民の傷を手当する偽教師たちの存在がいます。そしてその甘い言葉を聞いて安心しようとする現実逃避した民の姿があります。一番の問題は、己の非を認められないことにあるのです。間違いを指摘されて、それを素直に聞き入れることができる人は幸いです。けれど、多くの人はそれが認められません。「平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」とあります。なぜでしょう。試練に納得できない私たちは言います。「私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。」神がそれを定めたのだ。主が毒を飲ませられるのだ。なんて酷い仕打ちなんだ。とです。けれど、そこには明確な理由があります。「私たちが主に罪を犯したから」です。私たちは物事の現象にばかり目が行って、なぜこんなことをと嘆き叫びます。けれど、その現象がもたらされるそもそもの原因には目を向けようとはいたしません。私たちは神についてあまりにも無知です。神の立場に立って物事を見返してみれば、そこには全く違う状況があります。一つの現象の中に、神は私たちと全く違うものを期待し見ておられるのです。バビロン捕囚はユダの王にとって、民にとって、ただの災厄でしかありませんでした。けれど、神にとっては民に気付かせるための懲らしめでありました。嘆くべきは滅ぼされるまで気付くことの無い己の無知でありましょう。再三に渡る忠告に耳を塞いできた恐れの無さでありましょう。事ここに至る前に、気付けたらどれだけ良かったかことでしょう。
 裁きの日がやって来ます。主の約束は確かです。私たちはその日嘆いても遅いのです。主が待っていてくださっている間に嘆くべきです。主が赦しを用意しておられる間に立ち返るべきです。明日ではない、今、主の御声に聞き従うべきなのです。

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