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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201004 ルカ4:22-30  「歓迎しない民」

ルカ4:22-30  「歓迎しない民」 

 イエス様の教えに、他のガリラヤ地方での反応と同じくナザレの人々も、その恵みの教えに驚き褒め称えました。ところが、しばらくすると彼らは全く反対の反応を示します。イエス様をなじり始めるのです。評判のイエスが、実は自分たちの町で大工の息子だったあのイエスだと皆が気付き始めたからです。「この人はヨセフの子ではないか」彼らの内にある偏見が、どれほど素晴らしい教えも、素晴らしい奇跡も、見えなくして行ったのです。
 『医者よ、自分を治せ』ということわざは、もともとは医者の不養生を指摘して忠告する言葉です。けれど、イエス様のここでのニュアンスは、信じてほしいならこの故郷でも奇跡を起こして見るがいい。という馬鹿にするような意味合いで使われています。イエス様が十字架に架かられた時に周囲にいた議員たちが、「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」と嘲りながら言いましたが、ちょうどそのようなニュアンスです。つまり、それほど彼らが目の前にいるイエス様を救い主だとは信じられないでいたということです。最初、その教えを聞いて驚き感心したと言うのに、であります。
 イエス様は言います。「まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」そして、エリやが、シドンのツァレファテにいた一人のやもめの女にだけ遣わされたこと、エリシャがシリア人ナアマンだけを癒したことを例えに出しまして、人々が預言者を否定したゆえに、預言者が異国の者のために遣わされたということを語ります。つまり、あなたたちがわたしを拒むので、わたしは別の者へと遣わされる。と言っているのです。なぜあれほどまでにユダヤ人を熱狂させたイエス様の教えが、イエス様の死後、ユダヤ人ではなくて、彼らが異邦人と蔑んだ人々の間で広まっていったのか。それは彼らが拒んだからです。彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言い、「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」と言います。彼らの内にある偏見がイエス様を拒む原因となったのです。イエス様にその心中を見透かされた人たちはみな憤り、イエス様を町の外に追い出します。それだけでなく、崖の淵から突き落そうとまでします。イエス様は彼らの間を通り抜けて、難を逃れますが、故郷の人々との決定的な決別がなされて、この出来事は終わるのです。
 さて、今日の箇所には頑なな故郷の人々の様子とそれに対するイエス様の厳しい指摘が記されます。しかしです。実はこの箇所に先立つ記録として、イエス様の伝道に対しての家族や郷里の人々の様子がマルコ3:21そして31-35節に記されています。郷里で「イエスはおかしくなった」という噂が流れ、イエス様の偉大な力はサタンによるものだという噂が流れました。それを聞いて、家族は心配してイエス様を連れ戻しに行くというものです
 ということは、です。今日の箇所で、郷里に帰られるイエス様は、すでに家族や郷里の間でどのような噂が立っているか、人々の不信仰な様子をすでに知っていたということになります。イエス様が郷里に帰られる。家族の下に帰られる。それは、気が狂ったと噂する人々の中に帰ること。それは、受け入れられないと分かっている中を敢えて帰るということでした。これは驚くべきことではないでしょうか。実はこの箇所には郷里を愛し、家族に心を留められるイエス様の憐れみと忍耐に満ちた姿が記されているのです。
 「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」とイエス様ご自身が言っておられます。過去を知っている人にとって、先にある固定観念が、邪魔をすることは確かにあるのです。しかし、だから語らなくて良いわけではありません。救われなくて良いはずなどありません。昔の自分を知っているということは、言い換えれば、私の内に起きた変化を一番良く知ってくれるということでもあります。また、普段から身近にいるということは、語るべきチャンスを逃さないということでもあります。偏見を超えて相手を認めるには、時間がかかります。きっかけが必要なときもあるかもしれません。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とあります。諦めずに粘り強く関わり続けていくとき、きっと主は友人も家族も、関わる身近な人を救って下さるという希望があるのです。

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