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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201011 ルカ4:31-37 「悪霊は平伏せど」

ルカ4:31-37 「悪霊は平伏せど」

 カペナウムの会堂で教えておられるとき、そこに汚れた悪霊に憑かれた人がおりました。その彼が大声で叫びます。「ああ、ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」ぎょっとする場面です。会堂中に緊張が走ります。すると、イエス様は彼に叱って言いました。「黙れ。この人から出て行け」悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行ったのでありました。
 悪霊はイエス様の存在を認めて、叫ばずにはいられませんでした。と言うことは、イエス様が来られなかったら、悪霊はわざわざ自分の存在を顕わにするような行動を取らなかったのではないでしょうか。会堂の中にまでこの男性が入ってきているということは、誰もこの人が悪霊に憑かれていると気付いていなかったのではないでしょうか。「黙れ、この人から出て行け。」とイエス様がおっしゃって、その人が人々の真ん中に投げ倒されて、その後、彼の落ち着いた様子を見て、初めて、この人が悪霊に憑かれていたと気付いたのではなかったでしょうか。考えてみますと、これはとても恐ろしい話だと思います。私たちは、悪霊は荒野に現れると思っていないでしょうか。けれど違うのです。悪霊はどこにでも現れます。人中に紛れて、人々を惑わす機会を覗っているのです。この悪霊が姿を表に出したのは、他でもない会堂なのです。神のことばが語られ、神の名が賛美される会堂においてです。まさかと思われるでしょうか。しかし悪霊は神と人の関係を引き離すことを企みます。そして人と人を争わせることを企てます。ですから悪霊は、神の民をこそ惑わそうと機会を覗っているのです。
 だから悪霊を恐れましょうと言いたいのではありません。むしろ逆です。紛れ込んでいた悪霊が名乗らずにはいられない絶対的権威がイエス様にはあると言いたいのです。イエス様がそこにおられるとき、悪霊はその権威の前にただひれ伏すしかできないのです。そのお言葉一つで退散するしかないのです。私たちは悪霊を恐れます。けれど、悪霊はイエス様を恐れているのです。ですから大事なのは、私たちがイエス様と共にあるということです。悪霊は、私たちの目を反らさせて、イエス様以外の何かに向けようとしているのです。
 さて、それにしましても、イエス様の本質を見抜いているのが悪霊しかいなかったという事実を見過ごすわけにはいきません。イエス様の言葉を聞いて、人々は感心し、称賛いたします。すごい教えだ。感動的な話だ。けれど、本当にイエス様のことばを理解するなら、私たちはこの悪霊に憑かれた人のごとく、イエス様の前にひれ伏すしかないはずなのです。悪霊の叫びは、イエス様の本質を誰よりも理解しています。イエス様のことばは、すごいとか、感動したとかで収まることばでは無いのです。自らの罪を告白せざるを得ないはずです。主の御名を称えずにはいられないはずです。
 悪霊はイエス様のことばには権威があると認めておりました。お言葉一つで自らが追い出されることを知っておりました。それに比べて、人々はどうだったのでしょう。すごいとは思った。驚きもした。只者ではないと心から思った。けれど、それだけです。自らの罪を探り、主の救いを求めて、その足元にひれ伏すことはしなかったのです。その権威が自らに向けられることは想像できなかったのです。まるで、演劇を見る観衆のように、目の前の出来事を噂のタネとして話すしかできなかったのです。それは彼らが自らの内にある罪を認めてはいなかったからです。危機感が無かったからです。悪霊はそうはいきません。彼らはいつ裁かれるか、いつ滅ぼされるかと、絶えず危機感を覚えておりました。だからいち早くイエス様にひれ伏したのです。思い出してみますと、イエス様に先立って神より遣わされたのは、バプテスマのヨハネ。彼は悔い改めを告げ知らせたことでした。己の罪と向き合わせたのです。私たちが、イエス様のことばをすごいすごいと聞いている限りは、一時の感動でしかありません。私たちが神の権威に正しく畏れる時にこそ、私たちはそこに主の贖いと救いを見ます。それゆえ、私たちの生き方が変えられるのです。

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