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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201014 エレミヤ22:1-12 「公正と正義、そして福祉」

エレミヤ22:1-12 「公正と正義、そして福祉」

 この時代の王たちは少し混み合っていまして、ヨシヤ王の死後、エジプトとバビロンと言う2つの強国によって立て続けに傀儡の王が立てられ、やがてバビロンによってユダの国は滅亡いたします。エレミヤ22章ではヨシヤ王より後の亡国の王たちに向けられた預言が順番に並べて記されています。第2列王記23-24章と重ね合わせながら読むと背景がわかります。
 ヨシヤ王がエジプトの王ネコによって殺されたとき、息子エホアハズ(シャルム)が民の支持を受けて王を継ぎますが、エジプト王によってわずか3カ月で退位させられてしまいます。彼はエジプトに連れられ、その地で死ぬこととなります。エジプト王はエホアハズの代わりに、腹違いの兄弟エホヤキムを王に就かせます。ところが、このエホヤキム王の時代にバビロンが攻め上って来て、彼は捕えられるのです。宗主国エジプトは助けてはくれませんでした。カルケミシュの戦いでエジプトもまたバビロンによって敗北していたからです。この時ダニエルを初め、多くの民と財宝が奪い去られる第1回バビロン捕囚がなされます。エホヤキムはエジプトを頼って3年の後バビロンに反逆しますが、バビロン配下にあるカルデア・アラム・モアブ・アンモンの略奪隊によって逆に攻められ、ますます国を危機に陥れることとなるのです。エレミヤ22:13-19にはエホヤキムが自分の利得のために、罪のない者の血を流し、暴虐を行なっていたことが記されています。それゆえ、主は言われます。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」事実彼の死は誰からも悼まれず、その遺体は王の墓に葬られることすらありません。エルサレムから遠く離れたところに、野ざらしに投げ捨てられるのです。極めつけは、彼の名前はマタイの系図からも省かれるほどであります。民を顧みない君主の末路がここにあるのです。
 さて、エホヤキムの浅はかな反逆の結果、バビロンによる事実上の報復を受けることとなったのは、エホヤキムの子エホヤキンでした。バビロンは再び攻め上り、エルサレムは完全に包囲されてしまいます。エホヤキンは降伏して捕虜とされ、民とともにバビロンに捕囚されます。第2回バビロン捕囚です。この時の捕囚は大変大規模なもので、バビロン王はエホヤキンと共にユダの国の主だった者たち(高官、有力者、職人や鍛冶)をバビロンへと連れて帰り、ユダの地に残ったのは貧しい民衆のみとなりました。このエホヤキンに向けて語られた預言がエレミヤ22:24以下に記されます。「あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。彼らが帰りたいと心から望むこの地に、彼らは決して帰らない。」この預言の通りエホヤキンは生きて祖国に帰ることはありませんでした。けれど、主は憐み深い方でした。30節には「彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」とありますが、確かにこの予言通りユダ王朝は滅びます。しかし彼の子孫から、やがて王の王であられるイエス様がお生まれになるのです。
 さて、政治を司る王に対する神からの命令は22:3にありますように、「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。」というものです。これは時代を超えて、世の統治者に求められる役割です。政治は公正と正義、そして福祉のためにあると主ははっきりと語っておられるのです。けれど、ユダの王はどうだったでしょう。自身の利得のために政治を利用し、また個人的な野心やプライドで国の舵取りを行い、結果、国を滅ぼすこととなりました。聖書は世の権威に従うようにと言います。けれど、政治が「公正と正義、そして福祉」のために働かない時には、預言者はその誤りを正すために警告する使命を帯びているのです。教会は現代における預言者です。語るべき言葉を発するために大切なことは、神のことばで警告するということ。そして、私たち自身が公正と正義と福祉に励んでいるということです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(第1ペテロ3:15)とありますが、弁明できる用意とは単に字面だけのことではありません。語る言葉に説得力を持たせるのは、その人がその言葉通りに生きているかどうかです。私たちが今日御言葉に従順であることが問われるのです。

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