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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201018 ルカ4:38-41 「一人ひとりに手を置いて」

ルカ4:38-41 「一人ひとりに手を置いて」

 カペナウムの会堂で悪霊を追い出されたイエス様は、その足でシモン・ペテロとアンデレの家に入られて、そこで二人のしゅうとめの熱病を癒されました。そして、日が暮れると、多くの人々が病人を連れてきましたので、そのひとりひとりに手を置いて癒され、また悪霊を追い出されたことでした。ここで「日が暮れると・・・病人を連れて来た」とありますのは、この日が安息日だったということが背景にあります。当時の日の数え方は、日が暮れるときに一日が終わると考えられていました。つまり安息日が終わったので人々は沢山の病人を連れて来た。ということです。みんな安息日が終わるのをまだかまだかと待っていたのです。早くイエス様のところに連れて行きたくて仕方なかったんです。けれど安息日なので会堂以外の外出を控えざるを得なかったわけです。さらに言えば、これは安息日の出来事ですから、安息日でない日はと言いますと、人々は一日中イエス様の前に列をなしたのです。そして、そのように自分を頼ってやって来る人々を、イエス様は一人ひとり手を置いて癒されるのです。
 39節にペテロのしゅうとめの熱を𠮟りつけて治されるイエス様が記されています。また41節にも悪霊どもを𠮟りつけて追い出されるイエス様の様子が記されています。イエス様はことば一つで癒しのわざをなされる権威あるお方です。けれど、そのイエス様は病気で弱っている者を前に、わざわざ一人ひとりに手を置いて癒されるのです。
 お医者さんの中には、触診もせず、症状もろくに聞かず、カルテとレントゲン写真だけを見て診察する方もいたりします。たくさんの患者を診てきているベテランのお医者さんなら、きっとそれでも間違いない診断ができるのだと思います。毎日何百人と患者を診ていれば、少しでも効率よくと考えるかも知れません。けれど患者の身から言わせると、やっぱりよく聞いて、よく見てくれるお医者さんでいて欲しいのです。病気だけじゃなくて、私を見てほしいとこう思うわけです。診断結果はどちらも同じかもしれません。けれど、それを受け止める側の気持ちは変わってきます。この先生が言うことなら間違いない。そう思えるのは、医者としてだけじゃなく、人として信頼できる先生だからです。
 癒しということだけを考えれば、イエス様はもっと効率よく癒すこともできたと思うのです。自分のもとにやって来た病人たちを、ことば一つで一斉に癒すこともできるのです。けれど、イエス様が望まれるのはその人の病の癒しではありません。その人との関係の回復です。神からの恵みに触れて、その人が心から神に感謝し、ひざまずくことです。イエス様はある時10人のツァラアトの病人を同時に癒されました。彼らが遠く離れたところから叫んで癒しを乞うたからです。けれど、この癒しに感謝してイエス様のもとに駆けつけたのはたったの一人だけでした。病の癒しは必ずしもイエス様への信仰とは結び付かないのです。けれど、イエス様が望まれるのはむしろそのところです。その者がまことの信仰を取り戻すために、もし癒しが必要なら主は癒しを施されるのです。ですから、イエス様は一人ひとりと向き合われます。わざわざ時間を取って、一人ひとりと向き合い、話を聞き、その手を置かれるのです。ここで言う手を置くというのは、つまり、一人ひとりに相応しく関わるということです。ペテロのしゅうとめには手を置かず言葉一つで癒されました。それはペテロのしゅうとめを粗略に扱ったということではありません。ある盲人には泥を塗って池の水で洗えと言われました。38年も寝たきりでいた病人には「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じました。いえ、パウロに至っては、私から去らせてくださいと三度願った肉体の棘は遂に取られず、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と語られるのみでした。けれど、それらは全て、一人ひとりに手を置かれたということだと思うのです。私たちは皆顔が違うように、信仰を妨げる要因も違います。ある人は病のゆえに神を呪い、ある人は病のゆえに神を賛美します。イエス様はそれらを一緒くたにして、扱うことはいたしません。それぞれの置かれた環境、状況、立場、全てをご存じでいて、尚も一人ひとりと向き合ってくださるお方です。私個人を見てくださるお方なのです。

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