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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210113 民数記6 「現代のナジル人」

民数記6 「現代のナジル人」

 民数記とはその名の通り民の数を記す書。シナイ山と、その40年後にモアブの草原で行われた2度にわたる人口調査に由来しています。内容も、その人口調査の様子と共に、宿営に関する諸々の規定が記され、神の民の奉仕がテーマとなっている書物です。
 1章から9章まで、シナイ山での出来事が記されています。1章で第1回の人口調査の様子が記され、2章で宿営や行軍における各部族の位置。3章4章ではレビ人の数と職務が記され、5章では宿営からの汚れの除去について。6章でナジル人に関する規定が記され、7章で祭壇奉献のためのささげ物について。8章でレビ人の聖別。9章で出エジプト後の最初の過ぎ越しの祭りについてと、行軍のしるしと合図が記されています。
 さて、今日の箇所の6章はナジル人についてです。ナジル人は主のものとして特別に取り分けられた者のことです。彼らには、ぶどう酒や強い酒を絶つこと。頭にかみそりを当てないこと。そして死体に近づかないことが命じられました。ぶどう酒はカナンの地に住む農耕民の産物で、これを絶つことは異教からの分離を意味しておりました。頭にかみそりを当てないとは、つまり長い髪をそのままにするということですが、それはその者がナジル人であることの目に見えるしるしとされました。死体に近づかないことは、もちろん汚れから身を守ることです。酒を断ち、髪を切らず、死体に近づかない。この3つを守ることで、彼らはナジル人として神に仕える者とされたのです。なぜ、このような制度があるかと言いますと、基本的に宿営において神に仕えるのは、祭司やレビ人と決まっていたからです。祭司やレビ人は生まれ持っての家系として宿営の奉仕などに就く働き人でした。けれど、祭司やレビの家系では無い者でも、宿営での奉仕に携わることができます。それがつまりナジル人となることでした。つまりナジル人は特別な誓願を立てることで、自発的に主の働き人となった人々のことなのです。ですから、神はこの特別の請願に免じて、祭司でもレビ人でもないその者をナジル人として用いられるのです。
 聖書には、このナジル人についての記録が幾つか残されています。皆さんがすぐに思いつくところはサムソンではないでしょうか。不妊であったマノアの妻は、主の使いから男の子を産むと告げられ、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。と命じられます。なぜなら、その子は神にささげられたナジル人だからだと言うのです。生まれた子はサムソンと名付けられ、お告げ通りナジル人として育てられるのです。主から特別の力を授かったナジル人サムソンはペリシテとの戦において活躍いたします。若い獅子すらも引き裂く怪力サムソン。ろばのあご骨を振り回して1000人のペリシテ兵を打倒します。しかし、ペリシテの遊女デリラに溺れ、ナジル人の請願である髪の毛を剃り落とされ、力を失って捕えられるのです。サムソンは士師の中でも決して褒められた人物ではありません。女性関係にだらしなく、がさつで、横柄。お世辞にも神の器として相応しいとは到底思えません。けれど、彼は主に用いられます。それは彼が主に請願を立て、ナジル人として選ばれたからでした。ナジル人に問われるのは、その人柄ではありません。その徹底的な献身です。異教の風習を排除し、自らの身を清める。そして自らがナジル人であることを内外に知らしめることで、その覚悟に退路を塞ぐ。この徹底さのゆえにナジル人は用いられるのです。けれどサムソンは徹底できませんでした。デリラにその秘密を漏らしてしまいます。サムソンは主からの力を失い捕らえられます。哀れサムソンは死を間際に力を取り戻しますが、もはやその死を避けることはできず、多くのペリシテ人を巻き沿いにして死んでいくのです。
 さて、実はもう一つナジル人についての記述が聖書にあります。最後の晩餐でのイエス様の宣言です。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」聖餐式の制定の場面で語られるこの言葉は、イエス様がこの後死に行くことを暗示し、また過ぎ越しの祭りの廃棄を意味しております。しかし、それだけではありません。このところで語られる「ぶどうの実からできた物」とは、「飲むことは決してありません。」と続きますからぶどう酒のことだとわかります。けれど聖書のほとんどの場面では、ぶどう酒のことをこのように回りくどく言うことはありません。「ぶどうの実からできた物」という表現で他に使われるのは、実はこのナジル人の請願を立てる項目で記されるのみです。イエス様が単に「ぶどう酒」ではなくて、わざわざ「ぶどうの実からできた物」と言われたのには、このナジル人の請願を意識されていることは明白です。つまり神に自身を捧げるナジル人の誓約の如く、ご自身を神に捧げられるイエスの誓約。イエス様が徹底してご自身を捧げることの覚悟がこのところで語られているのです。
 ナジル人の規定を思うとき、レビ人ではないものが、自らの意思で主に仕える道が用意されているということに驚きと感動を覚えます。神の全能を思うとき、私たちの道はすでに決められているように思えるでしょうか。主の器とされるのは、特別な、主からの召命を受けた一部の人たちだとです。けれど、全てのキリスト者が自らの決意をもって主に仕える道が用意されていることを、ナジル人の存在が証明しています。ですから、私たちが主の器とされるかどうかは、ただ主の御心だけではありません。私たちの決意でもあるのです。異教の文化になびかず、一切の汚れを避け、キリスト者であることの旗印をはっきりと掲げる者は、現代のナジル人です。私たち一人一人がナジル人としてこの地に遣わされる器となることが大事なのです。

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