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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210210 民数記18:1-20 「神に仕え、互いに仕え」

民数記18:1-20 「神に仕え、互いに仕え」

 アロンとアロンの子孫とに与えられる祭司職についての決まりが記され、その後レビ人のそれが同様に記されます。強調されるのは職務の聖さ。祭司職と天幕の任務は彼らだけに特別に授けられる職務であって、他の資格のない者が近づくことすら赦されることはないと語られます。

 実はこれに先立って、16章でレビ人コラによる騒動が記されています。レビ人であるコラは、アロンが全イスラエルの祭司の聖職を独占しているのを妬んで、モーセとアロンに逆らい、指導者たちを扇動し、反旗を翻します。彼らの表立っての言い分は「イスラエルの全会衆が残らず聖なるものであるのに、モーセやアロンが指導者としての地位を独占しているのはおかしい。」というものでした。けれど、そのモーセとアロンを選ばれたのは他でもない主です。主はこれを良しとせず、コラとその家族、彼に属する全ての者と持ち物は、地面に飲み込まれ、生きながらよみに下るという凄惨な結果で終わります。主が反逆を戒めるしるしとして、そのようにされたのです。ところが会衆はこの出来事をモーセとアロンの仕業と決めつけて逆らったのです。更なる民の反旗に神は神罰を与えられます。17400人が息絶えました。しかし、それはモーセが急いでアロンに贖いを命じ、アロンが香を焚いたことで神罰が止んでくれた結果でした。
 17章では、主は12部族の杖とアロンの杖の中から、アロンの杖だけを芽吹かせることで、今一度、アロンの選びを明らかにされました。しかし、民は自分たちも滅ぼされると尚も恐怖に陥っておりました。

 そのような背景があっての18章です。主はアロンと祭司職の務めについて、レビ人の務めについて、改めて民に明らかにされるのです。
 1節から7節まで主はアロンの担う祭司職について語られます。主はまず冒頭で、祭司職に関する咎はアロンとその子たちが負わなければならないと明言されます。そしてレビ人は祭司に連なりこれに仕える者であることを明言されます。レビ人は天幕全体の任務に当たりますが、聖なる用具と祭壇に近づいてはならない。とその職務の線引きをなされるのです。それは彼らが死ぬことのないようにするためです。コラの反乱はこの職務の越権による混乱によって起きました。つまり、それは神の奉仕に対しての認識不足から来ていたのです。
 平等であるべき。という主張は一見、正しい主張に聞こえますが、その実は神の奉仕に優劣をつけて不平等を訴えているに過ぎません。それはヒューマニズムと呼ばれるものです。神は私たちを奉仕の業に招かれます。しかし、そこには役割の違いがあります。賜物の違いです。ある者は指導者として、ある者は祭司、ある者は天幕の奉仕、ある者は荷物の運搬、ある者はラッパの号令。この違いを優劣と捕らえるのは神の本意ではありません。神はそれぞれの賜物が最も生かせるようにそれぞれの役職を与えられるのです。
 誤解を恐れずに言いますと、実は教会は平等という価値観では動いてはいません。主は一人一人を同じようには扱いません。違う存在として扱われます。違う賜物を持った者たちとして、力を合わせることを求めておられます。パウロは一人一人の賜物を器官にとらえて、いたわり合ってからだなる教会を建て上げるようにと言いました。これはモーセの時代から一貫した神の民のあり方です。なぜなら、人は決して全能ではないからです。私たちには部分しか担えないのです。頭が歩くことはできないし、足が見ることはできないのです。コラにはコラの、アロンにはアロンの担うべき役割があります。コラにアロンの代わりはできないし、アロンにもコラの代わりはできません。私たちの罪はそこに優劣をつけることです。別々の特別な賜物にわざわざ優劣をつけて、同じようになれと強要してしまうのです。しかしそれは神の賜物に優劣をつけることに他なりませんし、何よりそれでは神のからだは機能しません。Ⅰペテロ4:10には「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。」とあります。私たちは与えられた賜物を精一杯に用いて神に仕え、互いに仕えるのです。
 さて8節からは祭司の奉納物についてが語られます。それはアロンの受け取る分だと言うのです。他の部族から見れば、なぜ彼らがと疑問に思うでしょうか。神への献げ物として持ってきたのに、儀式が終わればそれを祭司たちが自分の物とする。なんだか腑に落ちないと思うかもしれません。けれど20節には「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」とあります。それは祭司たちにとっての割り当て地だと言うのです。コラの件で民がモーセたちに詰め寄り神罰が起きたとき、民の贖いをしたのは他ならぬアロンたち祭司でした。彼らは聖所に関わる咎を負わなければならないと命じられました。彼らは咎を負うために、相続地を持たず、聖所で仕えます。その代わりに彼らは奉納物を受け取り分とされたのです。つまり祭司たちは民に雇われているのではなく、ましてや奉納物を着服しているのでもなく、神によって任じられているということです。ここがブレますと、たとえば牧師が信徒の献金額を見て態度を変えたり、信徒が教職者を雇っていると勘違いすることが起こり得てしまうのです。牧師は教会を自分の教会にしてはいけませんし、教会員も教会を自分たちの教会にしてはいけません。教会はあくまでも主のものでなければなりません。
 主によって集められた私たちに優劣の差はありません。あるのは賜物の違いです。主が私たち一人一人に最もふさわしい、最も輝ける賜物を授けてくださいました。私たちは互いの賜物を認め合い、神に仕え、互いに仕えてまいりたいと思います。

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