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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210321 ルカ7:18-23 「目で見て、耳で聞いて」

ルカ7:18-23 「目で見て、耳で聞いて」

 バプテスマのヨハネとは、イエス様の誕生に半年先立って生まれた預言者であり、まだ二人が母のお腹の中にいる頃から互いの存在を認め合う間柄であったその人です。彼はイエス様がまだ公の働きをされる以前から、神の国を説き、罪の悔い改めを勧め、水のバプテスマを授けておりました。おそらく地上のイエス様の使命を最も理解していた人物がこのバプテスマのヨハネであります。そのヨハネが「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねるのです。何だか違和感を感じるところです。実は、並行箇所のマタイの福音書では、「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、」(11:2)とあります。この時、ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスによって牢に捕らえられていたのです。
 つまりヨハネはこの時、自身の死を覚悟しているということです。彼の父ザカリヤは「主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与える」と、息子について預言しました。そしてその通り、彼の生涯は自分のためではなく、後に来る方の道備えとして全て費やされました。今、ヨハネは牢の中にいます。今彼が弟子たちにすべきことは何でしょう。それは救い主と出会わせることに他なりません。本当なら彼らを率いてイエス様のもとに駆け付けたいのです。この者たちをよろしくお願いしますと預けたい。けれど、それはできません。物理的に無理な話ですし、彼を慕う弟子たちもまたそれを望まないでしょう。そんな彼らを無理なくイエス様と引き合わせるために、ヨハネは彼らにイエス様への質問を言付けたということなのです。
 「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」この質問は、ヨハネこそがいつも弟子たちから問われる質問でした。この方こそキリストではないか。人々はヨハネにそのような期待を抱いたのです。ヨハネはそれがイエス様であることを誰よりも知っています。ですから、その質問はイエス様にこそ向けられるべきなのです。ヨハネは弟子たちがイエス様に尋ねるべき質問を、彼らに言付けたのです。
 イエス様は言います。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の前で起きているこの現実こそが答えだ。と言われるのです。では、おいでになるはずの方とはどういう方なのか。救い主とはどういう者なのか。それは人々を扇動して国を興す英雄ではありません。体の弱った者、貧しい者、人々から疎外される者。そういった一人一人に触れ、癒し、生かし、希望の言葉が掛けられる。神殿から排除された罪人たちが、神の癒しと恵みの内に加えられる。これこそが救いであり、私なんだと、イエス様はおっしゃられるのです。イエス様にとっては、世界を変えることよりも、社会を変革することよりも、そのような人を見つけ、手を触れ、涙を流し、明日に向かって生きる希望を与えることのほうがよっぽど大事なことなのです。
 この箇所ではヨハネの弟子たちが、ヨハネの言付けたことを尋ねるという場面が描かれていますが、同じようにイエス様に「あなたは私が待ち望んでいた救い主ですか」と尋ねる人は後を絶たなかったと思います。イエス様の噂を聞きつけ、イエス様のもとに集った大勢の人々。けれどそれだけじゃありません。今、この福音書を読むテオフィロが、そして、後の時代の全ての人がイエスは本当に救い主なのか。と問い続けてきたのです。皆がめいめいに自分の救い主を思い描いて、あなたは救い主ですか。と問う。そんな問いかけに、イエス様は、あなたの目で見て、耳で聞きて決めなさいと言われる。病の人が癒され、貧しい人たちに福音が届けられる。死を待つしかなかった者たちが、生きる喜びに溢れている。感謝の声を上げている。この現実を見て、あなたが自分で決めなさい。と、こうおっしゃられる。そこには否定しがたい救いの喜びが溢れていたからです。
 ここで一つ考えたいことは、もしもイエス様の周りに、喜びではなくて、不満や憤りで溢れていたらどうだったかということです。もちろん病が癒され、罪が赦されれば、人々は喜び感謝します。けれど、ともすると、私たちの喜びは日常の忙しさの中に消えていくのです。信じていても喜べない時がある。けれど神の子とされた私たちの顔が晴れやかでないのなら、人々はイエス様こそ救い主と、どうして知ることができるでしょうか。むしろ、つまずいてしまうのではないでしょうか。もちろん私たちが神の子とされたことに疑いはありません。けれど私たちがイエス様から目をそらし、耳を塞いでしまうなら、今日受ける喜びを手放すことになるのです。ですから、信じたことに留まらず、今日主に目を向けることが大事です。今日御声に聞くことが大事です。目で見て耳で聞けば、そこには否定しがたい恵みがあります。恵みを受けるかどうかは、私たちに任されているのです。

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