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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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210404 マルコ16:1-8 「空っぽの墓」

マルコ16:1-8 「空っぽの墓」

 有力議員でありイエス様の弟子でもあったアリマタヤのヨセフが、イエス様のからだを引き取って、墓に納めるわけなんですが、安息日がもう迫っておりましたので、ろくな葬りができませんでした。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、そしてサロメはこのことに大変心を痛め、何とか人並みの葬りがしたいと思い、安息日が明けてすぐ、週の初めの日の明け方早くに、イエス様の墓にやって来たのです。しかし墓穴を塞ぐ石はどうしようか。兵士たちは自分たちを中に入れてくれるだろうか。道すがら様々な心配をあーでもない、こーでもないと話しながらやってまいります。ところが驚いたことに墓に着いてみますと、すでに石が墓からころがしてあったのです。何があったのか。慌てて墓の中を確認いたします。しかし、イエス様のからだはどこにも無かったのです。
 イエス様の亡骸の代わりに、そこには真白な長い衣をまとった青年が座っておりました。マルコの描写では墓に着くとすでにこの青年がいたように見えます。けれどルカを見ますと、彼女たちが到着ししばらくして気が付くといたという書き方です。マタイはと言いますと、地震が起きて主の使いが現れ彼女たちの目の前で墓の石をどけたとあります。どうやらこの青年がイエス様の亡骸を隠したとか盗んだという訳ではないようです。ではいったい、イエス様の亡骸はどこに行ってしまったのか。彼女たちは必死に墓の中を探します。すると青年が声をかけられるのです。
 「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」いえ、驚くべきことなのです。イエス様が十字架で死なれて、墓に葬られたのは事実なのです。彼女たちが実際に見ましたし、ピラトの命令でローマ兵が確認し、墓を見張っているくらいなのです。それなのに、墓の石は横に転がされ、中に主イエスの亡骸がなかったんですね。
「ここにはおられません」と言いますが、そこにいないはずがないのです。彼女たちには何が起きたのか全く理解ができません。
 私たちはこの空っぽの墓がイエス様の復活を意味するんだと知っております。けれど彼女たちにとって「空っぽ=蘇られた」とは、到底思い付かないことでした。彼女たちは、居るはずのない青年の存在に恐れ、気が転倒して、墓を出て逃げていくのでありました。
 まぁわからなくもないですね。しかし、考えてみますと、イエス様は以前から、事あるごとにご自身の死と復活をお語りになっておられたのではないでしょうか。なぜ、彼女たちはこれらのことに思いが及ばなかったのか。散々に聞いてきたことなのに、目の前に起こった出来事と結びつかなかったのはなぜなのか。それはつまり、彼女たちの内にある常識がそれを邪魔したのです。彼女たち自身がこれまでイエス様の言葉を聞きつつも、復活のイエス様を思い描けません。死んだ人が生き返るはずはない。彼女たちの持つ常識が、彼女たちの信仰を塞いでいるのです。だから彼女たちは、この空っぽの墓を前にして絶望し、青年の言葉に恐怖したのです。
 このようなことは、私たちの日常にもままあることではないでしょうか。他の誰でもない。私たち自身が、神様の御業を信じることができないでいる。そういうことはないでしょうか。死人が蘇る。そんなことは普通はあり得ない。こういう世の常識で空の墓を覗き込むとき、そこには絶望しかありません。しかしです。御言葉に信頼して覗き込むとき、墓が空っぽであることが、むしろ希望になるのです。もし空っぽでなくて、イエス様の亡骸が変わらずそこにあったならば、それは絶望の確認でしかなかったのです。空っぽで、イエス様の亡骸が消えていたから、そこには復活の希望があるのです。
 時として絶望に思えるような出来事が起こります。神はどこにいるのかと嘆きたくなるようなことがあります。今世界で起こっている惨状に、恐れを感じます。しかし、どのような絶望も、主の目には違って映っています。そこには主の勝利があるのです。私たちの常識では何もない。解決の見えないような状況が、実は神の働かれるときでもあるのです。

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