FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

2015/09/27 ヨハネ3:16-21 「人々はやみを愛した」

ヨハネ3:16-21「人々はやみを愛した」

 この箇所の後半には、闇を愛する人々と、光を愛する人々の対比が描かれています。闇を愛する人は光のもとに来ません。なぜなら、その行いが明るみに出されることを恐れるからです。ここに罪の特徴があります。罪の特徴は隠れること、隠すことにあるのです。罪は闇の中で育まれます。闇にあるかぎり、それは目立ちませんし、糾弾されることもありません。逆に、それが明るみに出れば、私たちはその罪のゆえに糾弾されます。制裁を受けます。ですから、私たちは罪の問題があると知りつつも、それを明るみに出さず闇の中に葬り去ろうとするのです。けれど私たちが闇の中に留まる限り、私たちは罪の影響から逃れることは出来ません。逆に、私たちが光の中に進み出るとき、私たちは罪の影響から逃れることができるのです。
 第1ヨハネ1:9には、私たちの罪に対する対処方が記されています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」それは罪を言い表すことです。そうすれば私たちの罪は赦され、そしてその悪からきよめてくださるのです。ここで注目したいのは、ただ単に罪の赦しを祈りなさいとか、罪を悔いなさいと言っているのではないことです。「言い表す」と言っている。実はここに罪から抜け出すカギがあるのです。
 第1ヨハネ1:7にはこのようにあります。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」光の中に歩むとはすなわち交わりを保つことだと言います。そして、この交わりの中で、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。私はこれはキリスト者の究極の交わりだと思います。罪を人に告白するなんておかしいと思われるでしょうか。自分の弱みを語るなんて出来ない。神に告白したのだから、それで良いじゃないかとおっしゃるでしょうか。しかしです。神に罪を告白することは、ある意味、傷付かないのです。リスクがないのです。それは心の中の問題なので誰にも知られることはありません。もちろん、本質的には、罪の問題は神と人との間の問題です。けれど、私たちが罪を見えない所に置いておきたいと思うとき、実は私たちは罪の影響から完全に抜け出すことが叶わなくなってしまうのです。
 カトリックには告解という秘跡があります。カトリックの教会堂には懺悔室がありまして、壁の向こうには告解を聞くための司祭がおります。人々はそこで、自らの罪を告白するのです。信仰の問題ですから、別に人に聞かせる必要はないのです。けれど教会は、それを人に告白することを大事にしてきました。そうすることで罪を明るみに出させてきたのです。それは勇気のいることです。どのような偏見を生むか、どのような制裁を受けるかと不安です。しかし、だからこそ、その告白は主にあって赦されるのです。プロテスタント教会は、信仰の儀式化を避けるため、イエス様の直接の命令があった洗礼式と聖餐式を除いては、教会の秘跡を排除しました。告解もその一つです。しかし、そのために、私たちは罪に対する曖昧さを残してしまったのではないかとも思うのです。そして、それは罪の赦しに対する曖昧さにも結びついているのではないでしょうか。だから、私たちは罪を引きずってしまうのです。
 もちろん、だからと言って教会は全ての罪を暴露しなければならないと言うのは間違いだと思います。会う人会う人に罪を告白する必要はありません。けれど、本当に信頼を置ける兄弟姉妹との間で、交わりの中で、その罪を明るみに出していくとき、私たちはその罪の赦しを経験することができる。その罪の束縛から解き放たれるのです。

コメント

非公開コメント