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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/10/4 ルカ15:11-24 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」

ルカ15:11-24 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」

 今日の箇所は有名な「放蕩息子の話」です。15章には、他にも2つの譬え話があります。一つ目は失われた羊。二つ目は無くしたコイン。どちらもその結論は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」というものです。けれど違いますね。喜びは神の御使いにおいてに留まりません。喜びは私たちのうちにも、であります。今日はこの後、洗礼式がありますけれども、私たちはこの日をどれほど待ち望んだことでしょうか。しかし、しかしです。しかしそれだけではありません。今日の箇所では、もうひとかた、その帰りを喜ばれる方についてが記されています。それが天の父なる神です。
 今日の話は、イエス様が放蕩息子と父を題材にした譬え話です。譬えですから、本当の意味は別にあります。それは父なる神と私たちの関係を示しているわけです。ではこの譬え話の中心メッセージは何でしょうか。それは、息子の帰りを待ちわびている父がいるということです。
 考えてみてください。息子がいつ帰ってくるかなど、誰にもわかりません。1年先か、10年先か、いえ、もしかすると一生帰ってこないかもしれません。にも関わらず、父は彼が遠くから見つけたのです。これは凄いことです。出ていったときハツラツとしていた弟息子は、髪も髭も伸びっ放し、衣服は擦り切れ、悪臭を放ち、凡そ別人だったのです。誰もが鼻をつまんで顔をそむけたことでした。にも関わらず、父は彼に駆け寄り、口づけし、抱き寄せたのです。
 つまり、父は、毎日そこに立っていたということです。毎日毎日彼の帰りを待ち続けたのです。彼が出ていったその日からこの日に至るまで、一切の仕事も手放して、ただただ弟息子の帰りを待ち続けたのです。他の何を投げ出しても、この弟息子の身を案じていたということです。だから、全く変わり果てた息子を、遠目にして気付き、走り寄ったのです。私たちは気付いていないかもしれません。しかし、私たちの帰りを待ちわびて、その身を誰よりも案じておられる方がおられるのです。
 息子の救いは、父のもとに帰ることでした。しかしそれは彼の意思によって決まるのではありません。それは父に委ねられておりました。息子がいかにへりくだろうと、どれほど謝ろうと、父がそれを赦さなければそれでしまいです。けれど、父はそれを赦すどころか、彼がまだ遠くにいるにも関わらず、彼に気付き、駆け寄って、だき寄せ、口づけをする。彼の帰りを心から喜んだのです。よく読めばわかりますが、父が彼を抱き寄せたのは、彼が自分の親不孝を告白する前なのです。彼がへりくだる前なのです。つまり、父の中では、すでに赦すことが決まっていた。息子が帰りさえすれば、父は息子を赦そうと決めていたのです。そして、これこそが、救いの根拠だと思うのです。
 そこにすでに救いが用意されている。すでに赦されることが決まっている。これが私たちの受ける救いです。だからこそ、この救いは永遠に変わることのない確かさを持っているのです。私たちが帰ることを決めたから、私たちが神を信じることにしたから救われると言うのなら、これほど頼りにならないものはありません。私たちは自分の意思や決断がどれほど不安定かを知っています。ですから、私たちではありません。私たちの帰りを待っておられる神がすでに救いを用意されているのです。
 ひとりの罪人が悔い改める時、天において喜びがわき起こります。しかし、それ以上に、天の父なる神が喜んで下さる。それが聖書の語るところです。父は、私たちの存在を喜んで下さる。楽しんで喜ぶのは当然だと、言って下さる。神とともに歩む人生は、神に喜ばれる人生なのです。「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

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