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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/10/11 ルカ15:1〜7 「迷い出た羊を求めて」 佐野泰道師(霞が関キリスト教会牧師)

ルカ15:1〜7 「迷い出た羊を求めて」 佐野泰道師

 イエス様がお話になったたとえ話です。羊を100匹持っている人がいる。そのうち1匹がいないのに気付いたら、その羊飼いは99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで探し歩くというのです。
 私たちは、とっさに思います。野原に残した99匹の羊は大丈夫なのか、と。もし99匹のところに狼や泥棒が来たらどうするのか、と。99匹を守るために、1匹の犠牲は仕方ないのではないか、と。しかし、イエス様の主旨はそういうことではありません。これは、“失った1匹の羊を、どんなことがあっても、見つかるまで捜し続ける羊飼いがいる”という話です。その羊飼いこそ、救い主イエス・キリストです。
 では、いなくなった1匹の羊とは、誰のことでしょうか。ある時、「私は迷子の羊です」という人に出会いました。その人曰く、「自分は、前は教会に行っていたけれども、ずっと休んでいる。行かなきゃいけないんですけどね。」わかっているけれど、直せない。なぜ、直せないのか。それは、自分のことにこだわり過ぎてしまうからです。
 私たちは誰でも、自分のことにはこだわりを持ちます。集合写真では、真っ先に自分の姿を探す。自分のしていることが、どう評価されているか、気になる。自分が役に立っていないと思うと、存在価値がないように思う。言葉や態度では隠していますが、自分のことが一番気になっている。そうやって、自分というものにとらわれている人こそ、迷子の羊ではないでしょうか。その意味では、ここに登場する取税人たちも、またパリサイ人たちも、迷子の羊であり、私たちもまた例外ではありません。
 イエス・キリストは、その人が何者であるか、一切関係ありません。取税人であろうと、パリサイ人であろうと、どういう過去をもっていようと、どんなことをしていようと。イエス・キリストは、今でも、いなくなった羊を捜し求めておられます。「私は、滅びる羊のように、迷い出ました」(詩篇119:176)との言葉のように、キリスト者であっても、世における様々な戦いに疲れ果て、迷い出ることがあります。しかしイエス様は、私たちにみことばを与えてくださり、神様のもとに連れ戻してくださいます。
 ここには、イエス様の主権的恩恵が示されます。イエス様は、私たちが願ったから、私たちを助けてくださるのではありません。私たちが頼むよりも先に、ご自分で助けることを決めて、助けてくださるのです。そのように恵みに満ちた主権的な振る舞いは、聖書の至る所に示されています。神は、私たちが愛するよりも先に、まず私たちを愛してくださいました(第1ヨハネ4:18)。また、私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選んでくださいました(ヨハネ15:16)。また、第1ペテロ5:7には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」とあります。神様が、私たちが願う前から心配していてくださる。だから、神様に自分の思い煩いや悩みを任せることができます。そのように、神様はいつも、私たちに先立って、私たちのために働いていてくださいます。
 さて、見つけられた羊は、大変喜ばれています。この喜びは、取税人たちのことを指しているのでしょう。「取税人、罪人たちが、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」(1)とありますように、イエス様のみことばを聞こうと集まった人たちこそ、イエス様に見つけてもらった羊なのです。
 イエスを信じる喜びがあります。しかし、イエス様の側でも、私たちのことを喜んでおられるのです。つまり、天の御国で、私のことを喜んでくれている人がいるということです。
 この視点が、大切です。この世の様々な競争社会の中で、比較やずる賢い裏表の駆け引きの中で、「私のことを天で喜んでくれている人がいる」というこの視点を見失うならば、たちまち人と人との喧騒の中に巻き込まれてしまうでしょう。しかし、いなくなった羊を見つけるまで捜し求める羊飼い、イエス・キリストがおられます。ひとり子を十字架につけてまで、私を愛し抜いてくださるお方は、今も、私のことを天で喜んでいてくださいます。そのお方が、今日も、私たちと共に生きていてくださいます。

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