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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/12/13 ルカ1:46-56 「わがたましいは主をあがめ」

ルカ1:46-56 「わがたましいは主をあがめ」

 伝統的にマリヤの賛歌と呼ばれ、親しまれてきた箇所です。エリサベツとの再会を果たし、その年老いた身に子が与えられたことを知ったマリヤは、御使いの知らせの確かさを実感いたします。そしてこれまで誰にも言えず一人で抱えていた事について、初めて他人の口から祝福されたマリヤは、わが身に起きたことの不思議を、神の幸いとして改めて実感するのです。
 「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」事実、後の時代の人々は、マリヤのことを聖母マリアと呼びまして、神格化していくわけです。人々は、主がマリヤに大きなことをしてくださったから、救い主の母となったから、マリヤのことを誰よりも幸せ者だと称えます。
 マリヤは続けて言います。私が生むその方は、高い者を低く引き下げ、低い者を高く引き上げる方であり、あわれみをいつまでも忘れること無く、助けてくださる方である。と。だから、人々は私を幸せ者と思うでしょう。とです。事実、人々は主イエスを知るほどに、その母マリヤを称えます。この偉大な奇跡の器として用いられたマリヤを羨んだのです。
 しかしです。マリヤが今、神を喜び称えるのは、そのような理由ではありません。それはあくまでも世間の理由です。もちろんマリヤも、この身に宿した赤ん坊が救い主であることを十分理解しています。まだ生まれる前から、我が子が成し遂げる力強いわざを数え上げるのは間違いなくマリヤ本人です。きっと後の人々は私を幸せ者と思うに違いない。そのように語るマリヤです。そして、その評価は決して間違ったことではありません。マリヤが素晴らしいのではなくて、素晴らしいのはマリヤの宿した神の御子である。これは確かにそうなのです。もし、マリヤが普通にヨセフの子を宿し産んだからといって、後の人々がマリヤを称賛することはなかったでしょう。マリヤが後の世に評価されるのは、彼女が救い主の母とされたからに他なりません。
 けれどです。それはマリヤの評価ではありません。彼女は、自分の身に宿ったいのちが特別な神の御子であったから神を喜んだのではなくて、神が目を留めてくださった。神の目から見れば卑しいはしために過ぎないこんな私に、神は関心を寄せてくださった。だから彼女は神を喜び称えると告白しているのです。
 世の人々は結果に目を留めます。その人の肩書きを評価します。聖母となったマリアをです。けれど、私たちが心から望むのは、肩書きを外した私を認めてもらうことではないでしょうか。私たちが根っこの部分で願うこと。それは私という存在をありのままに認めて欲しい。見ていて欲しいということではないでしょうか。世の中は肩書きを求めます。私たちは多くの場面で、様々な仮面を被って生きることを強要されます。相手にとって価値のある私。そうでなければ、誰も私に見向きもしてくれない。だから必死に自分を装うのです。けれど、そこには本当の意味での信頼関係はありません。条件付きです。「あなたが私の役に立つ限り友達でいるからね。」「あなたが私の得である限り、私はあなたを愛しますよ。」けれど、そういった関係に私たちは、決して満足することはできません。それは私を見ていない関係です。私でなくても構わない関係です。私が期待に応えられなくなれば、立ちどころに消えてしまう関係です。けれど、私たちが望むのは変わらない愛なのです。有名になった私ではなくて、成功して活躍している私ではなくて、たとえ有名にならなくても、成功しなくとも、私という存在を見ていてくれる。期待してくれる。そして神はまさしくそのようなお方だとマリヤは告白しているのです。同じように神は私たちにもその目を向けておられます。こんなちっぽけな私を、神は壮大なご計画の内に用いてくださるのです。どう評価されるか、何を成し遂げるのか。を気にする必要はありません。神が私に目を留められ、神が私を用いられる。私たちはただこのことを喜び称えたいと思うのです。

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