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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/05/10 ヨハネ1:29-34  「世の罪を取り除く神の小羊」

ヨハネ1:29-34 「世の罪を取り除く神の小羊」

 イエス様がヨハネのところにやって来られた時の話です。ヨハネは口頭一番「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びます。それは、この方こそ、私たちの罪の身代わりとして死なれ、私たちをその罪の刑罰から救ってくださる方であるという意味です。そしてだからこそ、この方は「私にまさる方」だと言うのです。
 しかし、当時の多くの人々にとって、それは理解し難いことでした。なぜなら彼らが望む救世主とは、「世の罪を取り除く神の小羊」ではなく、「外国の圧政から国を救い出す力強い英雄」だったからです。と言いますのも、これに先立ってユダの国は一度独立を果たしたことがありました。ユダ・マカバイという人物がシリヤ・セレウコス朝に対して反乱の狼煙を上げ、そして見事勝利したのです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、マケドニア、プトレマイオス朝、セレウコス朝と支配され続けたユダの民は、彼こそが約束された救い主だと確信しました。ところが、このユダの独立は一時のことでした。ローマの後押しによってユダの王にヘロデが就任し、ローマによる傀儡政治が始まります。ユダはローマの実質的な支配の中に置かれるのです。ですから、ユダ・マカバイの再来が起こる。救世主がやって来て、ローマの支配から独立し、永遠の神の国を樹立して下さる。ダビデ以来の繁栄をもたらす救い主を願い求めるようになるのです。
 だからこそ人々は権力から程遠い、荒野の預言者、ヨハネのもとへと集ったのです。ヨハネの内に、彼らが願うところの救世主の素質を見出し期待したのです。ところがヨハネは「私はキリストではない」とはっきりと語ります。そして、救世主とは「世の罪を取り除く神の小羊」。そもそも救いとはこの国の独立のことなんかじゃなくて、あなたたち一人ひとりの神の前にある罪の精算に他ならないんですよ。そして、このイエス様こそがそのために遣わされた罪の生贄となられるお方なんですよ。と、こう語るのです。
 人々の願いと神のご計画には大きなずれがありました。実はこの見当違いの期待というものを、私たちもまた抱えているのではないでしょうか。つまり、信仰を持てば全能の神は目の前の問題を立ちどころに消し去ってくださるという期待です。愛の神は私の願うところを全て立ちどころに叶えて下さるに違いないという期待です。しかし、神のご計画を差し置いて、神が私の願いを優先する必要はどこにもないのです。
 私たちは、イエス様に向かう前に、神のことばに向かう前に、私たちの願うイエス様の姿を、そして神様のことばを期待することがないでしょうか。イエス様が語る前に、願い求めるイエス様がすでにあります。そして、実際には、そのような願いどおりにならないときに、あろうことか、それは救い主には相応しくないと、私はそのようなことは望んでいないと、神に訴えるのです。神ならこうあるべき。教会ならこうであるべき。しかしどうでしょう。それは本当に正しい訴えなのでしょうか。神さまと私たちとの関係はいつも神からの一方的な恵みです。私たちが神さまを作ったのではなく、神が私たちを造られました。私たちが神様を愛したのではなく、神が私たちを愛されました。この関係は「私たち」が先に来るときに、正しいものではなくなります。まず、イエス様が語られるところに聞き、神様が導かれるところに従う者でありたいと願わされます。私たちがイエス様を形作るのではなくて、イエス様が私たちを整えてくださるようにと願うのです。

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