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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/12/27 ルカ2:40-52 「心に留めて」

ルカ2:40-52 「心に留めて」

 この箇所は、クリスマスの後日談となるところです。過越の祭りに参加した少年イエスは、父母から離れて、一人宮に残り、ラビたちを相手に3日間も御言葉を学んでいたというのです。もちろん、それだけなら、単に人騒がせな子どもの話です。けれど、不思議なのはその後の会話です。心配して探し続けたマリヤは息子を見つけて叱ります。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も心配してあなたを探し回っていたのです。」ところが、これに対して、少年イエスは「どうして、わたしをお探しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と返事するのです。なんだかちぐはぐな会話に聞こえますね。それは二人の言う父が違う父を指しているからです。つまり、マリヤは父ヨセフを。イエス様は父なる神をです。
 イエス様の真意がわからないマリヤとヨセフですが、これはしかし、わらかない二人を責めるのは酷な話です。確かにこの子が特別な子であると二人は承知しています。しかし、同時に目の前にいるのは12年間共に暮らし成長を見届けてきた紛れもない我が子なのです。ですから、私たちが見るべきは、彼らの無知ではありません。その先です。マリヤがこのイエス様の言葉をどのように受け止めたかということです。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」マリヤには息子の言葉の意味がわかりません。しかし、彼女はこれらの出来事を心に留めます。そしてそのおかげで、私たちはキリストの誕生と言う不思議を後の時代にあって知ることができるのです。
 私たちがマリヤから学ぶことは、わからないということを歩みを止める理由にする必要はないということでしょう。彼女はわからないという事実をただ受け止めるのです。わからないままに心に留めるのです。そして、後になって理解し、証言を始めるのです。
 私たちは神の御心を求めつつも、その全てを知ることはできないという事実を認めなければなりません。将来がどうなるかわからない。神のみこころが何かわからない。わからないということは、私たちの決断を鈍らせます。私たちの足を踏みとどまらせます。けれど、わからなければ進めないということではないのです。いえ、神のみこころがわかるということなど、どだい無理な話です。わかっていなければならないことは一つです。それは全てのことは神の御手の中にあるということです。
 受胎告知にせよ、クリスマスの出来事にせよ、今回のイエス様の発言にせよ、彼女には理解できないことばかりです。常識では考えられないこと。けれど、彼女にはこのことが神の手によるということだけはわかっていた。そして神は自分の人生に無意味なことはなさらないとも。だから彼女はことを委ねて従うのです。目の前の出来事を無理にわかろうとするのではなく、そのままを心に留めるのです。そうすることで、彼女は神の導きに対する平安を得ることができたのです。
 わからないことは意味のないことではありません。わからないのは恥ずべきことでもありません。わからないということを認められないことが問題なのです。特に信仰においては、わからないということを認めることが、新しい一歩へと繋がります。大事なのは、わからないと認めること。そして、わからないままに、心に留めることです。わからないから、忘れてしまえではありません。それはやがてわかるときが来るのです。イエス様の十字架と復活を経験し、マリヤの目が開かれたように、私たちにもわかるときがやって来る。ですから、私たちはそれを心に留めておく必要があるのです。やがて私たちは、今のときの意味を深く知り、そしてそれゆえに用いられる時が来る。ですから、私たちは、疑わず、主に信頼して、目の前のことを心に留めておきたいと思います。この出来事の幸いを数えるその時まで、心に納めて、思い巡らせていきたいと思うのです。

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