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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2016/01/03 イザヤ32:18 「平和をきずく者」

イザヤ32:18 「平和をきずく者」

 信仰継承の難しさについては、様々な方が経験されていることかもしれません。親に連れられて教会学校に熱心に通っていた子どもたちが、いつの間にか教会から遠のいていく。それは例えば中学校に上がって部活動が忙しくなったとか、塾や習い事が増えたとか、今まで従ってきた親に対する反抗だとか、色々な理由があるでしょう。一昔前は、それでも強引に教会に連れて来るということが声高に勧められて来ました。親の威厳と言うものがまだ通じた時代だからです。けれど、今同じことは難しいです。一方的な押し付けは、それがたとえどれほど素晴らしいものだったとしても反発を生むからです。ただでさえ反抗期を迎える青年時代、親への反抗は、親の信仰への反抗と結びついていくのです。
 ですから信仰継承とは、もちろん親子関係を築くこと、子どもから尊敬されるような親となることが第一でありますけれども、一方で、私たちはこれを教会の問題として捉える必要があるのではないでしょうか。教会が彼らの居場所となれば、彼らは必然とそこに留まる。留まるどころか集まってくる。と、青年宣教を専門とするある先生は熱弁されていました。なぁんだ、と思われるでしょうか。そんなの当たり前じゃないかと。そうです。当たり前です。しかし、だからこそ、もし彼らが教会から離れる。それは部活動や塾や親子の確執や、色々な理由が仮にあったとしましても、彼らが離れるとしたら、そこに彼らの居場所がなかったからだと言えるのです。
 若者たちは、様々な緊張関係の中で過ごしています。クラスの中で自分の言動は浮いていないだろうか、相手にとって自分との付き合いは得となっているだろうか、誰の味方であるべきか、誰を庇うべきか。小さな人間関係の中で、彼らはいつも窮屈に、緊張しながら過ごしています。周りの目を気にして、いつも自分ではない誰かを演じて過ごすことを求められています。もしかしたら家の中ですらそうかもしれません。ですから、彼らに必要なのは、心から大切にされているという実感です。その存在が喜ばれるという体験です。その緊張を脇において、心から安心できる関係です。それこそが彼らの居場所であり、彼らの平和ではないでしょうか。
 しかし考えて見ますと、それは彼らだけに当てはまることではないわけです。私たちにとってもそのような居場所が必要です。互いの存在を喜び合える関係です。互いを心配し、互いに気遣い、弱さに寄り添える関係です。互いに頑張ることを喜び合える関係です。教会はまさにそのような場所であるべきなのです。イザヤ32:18のこの言葉です。アッシリヤの脅威にエジプトを頼ったユダの民に、神は再三に渡ってご自身に立ち返るようにと告げられますが、彼らは一向に聞きません。そこで神はユダに災いを語られます。しかし同時に、神はユダの救いをも語られるのです。15-20節までに語られるところは、神の民への祝福の約束。それは究極的には御国における平安でありますが、同時にこれは御国の先取りである神の教会にもあてはまるところです。私たちの住まいはそのような場所だと言うのです。
 では、いかがでしょうか。教会は皆さんにとって、平和な住まいとなっていますでしょうか。安全な家、安らかないこいの場でありましょうか。もし、そうでないとするならば、それは教会の中に、神の価値観とは違う何かが入り込んでいるのかもしれません。教会に平和を築くために、具体的にはどうすればいいのでしょうか。それは教会が希望を語るということであったり、私たちが互いの関係の中にキリストを仰ぎ見ることであったり、徹底的に主に服従することであったり。つまり、救われた者がその恵みの中に生きる。『キリスト者』として生きるということが大事です。世の中の価値観を教会の中に引きずっては、教会の平和や憩いは崩れ去り、人間関係に神経をすり減らす世の中と何ら変わりがなくなってしまいます。詳しくは、今年幾度かに分けて学んで行きたいと思いますが、私たちが今日ご一緒に確認するところは、教会の本来ある姿、目指すべき姿。それは、教会こそは「平和な住まいであり、安全な家であり、安らかないこいの場である」ということです。他にはありません。なぜなら、教会の中心には平和の君がおられる。私たちの真中に主イエスがおられるからです。
 この平和は私たち一人一人が主体的に築き上げていくものです。教会とは建物ではなくて、キリスト者の群れです。共に礼拝する私たちが教会です。ですから、私たちが積極的に平和を求めなくて、教会に平和があるはずがありません。教会に平和を見出せない時、実は自分自身が平和を掻き乱していないかと省みるべきです。平和を築く者にとって、教会はこれ以上ない平和な住まいとなるのです。

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