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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2016/01/17 ヨハネ4:27-38 「刈り入れの実」

ヨハネ4:27-38 「刈り入れの実」

 サマリヤ郊外のヤコブの井戸でイエス様が一人のサマリヤの女性と話されている。そこに町で食料を調達していた弟子たちが帰ってきたというのが今日の場面です。一刻も早くイエス様に食べてもらいたい。ですから帰ってきて、イエス様が女性と話されているのを見たとき、さぞかし、もどかしい思いでいっぱいだったことでしょう。早く終われ。早く帰れ。と内心でつぶやいていたことでしょう。女性が町へ帰って行ったところで、彼らは待ちに待って言います。「先生、召し上がってください。」
 ところがイエス様は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と言われるのです。がっかりです。「よくやった。」とねぎらってもらおうと、苦労して調達してきたのに、イエス様は、もうすでに食べ物を手に入れておられるんですね。「だれか食べる物を持ってきたのだろうか。」とありますが、彼らには心当たりがありました。先ほど町へ帰っていった女性です。余計なことをしてくれたものだ!彼らは内心は女性に対する腹立たしさでいっぱいだったのです。
 すると、イエス様は語られます。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることがわたしの食物です。」そして、続けて、言われます。「あなたがたは『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、私の言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、借り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある」とあります。彼らはその時が来ていることにちっとも気付いていないのです。「目を上げて畑を見なさい。」とあります。それは色づいて、刈り入れるばかりになっていると言います。ここに全く対照的な二つの視点があるのです。弟子たちは井戸端でイエス様と話す女性を、迷惑がって見ておりました。彼女が町に向けて歩み出たとき、清々した思いでおりました。自分たちとイエス様の間に割り込むな。と言いたげな彼らでした。けれど、イエス様の目には、その女性は刈り入れるばかりとなった収穫の実だったわけです。しかし、弟子たちはそのようには見ません。彼らはその女性を救いの対象とは見ません。なぜなら救いはユダヤ人のものだからです。いえ、たとえ百歩譲って仮にサマリヤ人も救いの対象だとしましても、弟子たちは言うでしょう。まだその時ではない。まだ彼らの順番は来ていない。とです。
 無意識のうちに、この人はサマリヤ人、この人はユダヤ人と区別することは、実は私たちもしているのではないでしょうか。私たちは、福音を語るその前に、この人は救いに値するかどうか、この人は福音を聞く時期にあるかと、自分勝手に見定めては、まだその時じゃない。まだ彼らの順番ではないとあきらめてしまうのではないでしょうか。大事なのは、その人を収穫の実として見ることです。私たちが置かれているそのところを、神の畑として見ることです。今この瞬間を神の時として見ることです。
 福音を語ることは大変勇気のいることです。しかし、イエス様は『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』と語られました。つまり、伝道は一人の努力によらないということです。伝道が一人の働きであれば、私たちは恐ろしくてとても関われません。その人の救いの責任を全て負うことなど誰にもできません。伝道はチームです。イエス様は「蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」とも言われました。どちらにとっても、この分業は喜びです。神のご計画に従い一人一人がその賜物に応じて用いられるとき、そこには確かに収穫が用意されているのです。

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