230820 ルカ20:9-19 「捨てた石が要の石となる」
ルカ20:9-19 「捨てた石が要の石となる」
イエス様は人々に譬え話を話し始められます。ぶどう園の主人とその土地を借りた農夫たちの話です。当時農夫たちが畑を借りるときは、その代金は収穫の中から支払われるのが普通でした。採れた分からの出来高支払いというわけです。特別珍しい話ではありません。主人は収穫の季節になって、代金を受け取るためにしもべを送ります。ところが農夫たちは主人からのしもべを袋叩きにして追い返してしまったのです。同じことが二度、三度と繰り返されます。しもべが送られては打ちたたいて、追い払います。そして、挙げ句、主人の息子がやって来たとき彼らは共謀してこの息子を殺してしまうのです。出来心とか、事故とかではない。彼らは明らかな殺意をもって殺したのです。彼らは息子が跡取りだと知った上で、自分たちの欲望と利益のために殺したのです。
何とも恐ろしい話であります。けれど私は農夫たちの恐ろしさよりも、この主人の世間知らずと言いましょうか、甘すぎる考えに、より驚いたのです。もしも主人がもっと警戒しながら農夫たちと接していれば被害は最小限で押さえられただろうに・・・。明らかに反逆している者たちに、何度も何度もしもべをつかわし、それでも駄目だと、今度は息子まで。いやいや、それがどれだけ危険なことか、火を見るよりも明らかではないでしょうか。農夫たちの残虐さよりも、主人の甘い考えが信じられません。
しかし私たちはここで、これが譬え話であるということを思い出さなければなりません。譬えですから、この登場人物はそれぞれ別の人物を指しているのです。主人とは神様のことであり、ぶどう園とはこの世界。農夫は人間であり、しもべは神からの預言者たち、そして息子とはイエス様です。つまり世間知らずの非常識。甘すぎる考えだと思ったその主人は、まさに父なる神のお姿なのです。神様は、私たち人間がいつかはご自身の信頼に答えてくれると信じて、忍耐強く預言者を送り続け、一人子を送って下さったということです。
神様の忍耐と信頼を良いことに自分勝手に振舞う人の罪深さを思います。農夫たちは納めるべき収穫の一部を納めず契約違反を犯しました。また、何度しもべを送られても悔い改めず、かえって罪を増し加えました。そして、もっとも酷いのは、送られてきた息子を主人の跡取りだと知って、相談した上で殺したということ。出来心とか、事故とかではない。明らかな殺意をもって殺したということです。人と言うのはたとえイエス様が神の子だと知っていたとしても、自分の欲望を優先して殺せてしまうのです。罪に気付いても悔い改めに結び付かない。悪いことと知りつつもやってしまう。これが私たちの本質なのです。
私たちは忘れてはいけません。確かにこの主人は寛容であり、忍耐強く、私たちを信頼し続けてくださるお方ですが、しかし、やがてその主人の信頼をも失ってしまう時、自分の行いに清算しなくてはならない時が来るということをです。「捨てた石それが要の石となった。」どうでもいいと思われていた石が、その最も大切な要の石となる。人々から捨てられた方が救いとなられる。これは十字架と復活のイエス様を指した言葉です。そしてイエス様は続けて言われます。「だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」要の石をさげすみ、あざけ笑った者たちへの報いです。主の厳格な裁きの宣言が語られるのです。
今日の譬え話で語られるのは、言い逃れの出来ないその時が来るということです。徹底的な裁きの時が来る。私たちはそれを何と慈悲のない神かと嘆くのでしょうか。神は愛じゃないのかと批難するでしょうか。しかし、幾度となくしもべを送り、あまつさえ最愛の息子さえも送り出した主人の農夫たちへの信頼と忍耐を無視したのは私たちでは無かったでしょうか。私たちは何の弁解もできません。
しかし後にペテロは言います。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:11-12a)ここに主の到来が、悪い農夫たちにとっては裁きのときであるとともに、主を信頼する者にとっては救いのときであることを見るのです。ですから、主の到来は私たちにとって滅びではなく、希望となるのです。
私たちの目にその石はどのように映っていることでしょうか。みそぼらしいでしょうか。役立たずでしょうか。色々な見方があるでしょう。けれど、その石こそが要の石。私たちはこの石にこそ救いを見るのです。
イエス様は人々に譬え話を話し始められます。ぶどう園の主人とその土地を借りた農夫たちの話です。当時農夫たちが畑を借りるときは、その代金は収穫の中から支払われるのが普通でした。採れた分からの出来高支払いというわけです。特別珍しい話ではありません。主人は収穫の季節になって、代金を受け取るためにしもべを送ります。ところが農夫たちは主人からのしもべを袋叩きにして追い返してしまったのです。同じことが二度、三度と繰り返されます。しもべが送られては打ちたたいて、追い払います。そして、挙げ句、主人の息子がやって来たとき彼らは共謀してこの息子を殺してしまうのです。出来心とか、事故とかではない。彼らは明らかな殺意をもって殺したのです。彼らは息子が跡取りだと知った上で、自分たちの欲望と利益のために殺したのです。
何とも恐ろしい話であります。けれど私は農夫たちの恐ろしさよりも、この主人の世間知らずと言いましょうか、甘すぎる考えに、より驚いたのです。もしも主人がもっと警戒しながら農夫たちと接していれば被害は最小限で押さえられただろうに・・・。明らかに反逆している者たちに、何度も何度もしもべをつかわし、それでも駄目だと、今度は息子まで。いやいや、それがどれだけ危険なことか、火を見るよりも明らかではないでしょうか。農夫たちの残虐さよりも、主人の甘い考えが信じられません。
しかし私たちはここで、これが譬え話であるということを思い出さなければなりません。譬えですから、この登場人物はそれぞれ別の人物を指しているのです。主人とは神様のことであり、ぶどう園とはこの世界。農夫は人間であり、しもべは神からの預言者たち、そして息子とはイエス様です。つまり世間知らずの非常識。甘すぎる考えだと思ったその主人は、まさに父なる神のお姿なのです。神様は、私たち人間がいつかはご自身の信頼に答えてくれると信じて、忍耐強く預言者を送り続け、一人子を送って下さったということです。
神様の忍耐と信頼を良いことに自分勝手に振舞う人の罪深さを思います。農夫たちは納めるべき収穫の一部を納めず契約違反を犯しました。また、何度しもべを送られても悔い改めず、かえって罪を増し加えました。そして、もっとも酷いのは、送られてきた息子を主人の跡取りだと知って、相談した上で殺したということ。出来心とか、事故とかではない。明らかな殺意をもって殺したということです。人と言うのはたとえイエス様が神の子だと知っていたとしても、自分の欲望を優先して殺せてしまうのです。罪に気付いても悔い改めに結び付かない。悪いことと知りつつもやってしまう。これが私たちの本質なのです。
私たちは忘れてはいけません。確かにこの主人は寛容であり、忍耐強く、私たちを信頼し続けてくださるお方ですが、しかし、やがてその主人の信頼をも失ってしまう時、自分の行いに清算しなくてはならない時が来るということをです。「捨てた石それが要の石となった。」どうでもいいと思われていた石が、その最も大切な要の石となる。人々から捨てられた方が救いとなられる。これは十字架と復活のイエス様を指した言葉です。そしてイエス様は続けて言われます。「だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」要の石をさげすみ、あざけ笑った者たちへの報いです。主の厳格な裁きの宣言が語られるのです。
今日の譬え話で語られるのは、言い逃れの出来ないその時が来るということです。徹底的な裁きの時が来る。私たちはそれを何と慈悲のない神かと嘆くのでしょうか。神は愛じゃないのかと批難するでしょうか。しかし、幾度となくしもべを送り、あまつさえ最愛の息子さえも送り出した主人の農夫たちへの信頼と忍耐を無視したのは私たちでは無かったでしょうか。私たちは何の弁解もできません。
しかし後にペテロは言います。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:11-12a)ここに主の到来が、悪い農夫たちにとっては裁きのときであるとともに、主を信頼する者にとっては救いのときであることを見るのです。ですから、主の到来は私たちにとって滅びではなく、希望となるのです。
私たちの目にその石はどのように映っていることでしょうか。みそぼらしいでしょうか。役立たずでしょうか。色々な見方があるでしょう。けれど、その石こそが要の石。私たちはこの石にこそ救いを見るのです。