230827 ルカ20:20-26 「神のものは神に」
ルカ20:20-26 「神のものは神に」
イエス様の譬え話に反発する祭司長たちはイエス様を捕えようと、義人を装った回し者を送り込みました。彼らは当時の税金問題をイエス様に質問いたします。「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
この当時、ユダヤはローマの直轄地となってましたから、当然、税金はローマに納められていました。それは神の民であるユダヤ人には到底受け入れがたいことです。しかし、律法に照らせば、全ては神の支配の下にあり、全ての物は神から来るところです。富もまたそうです。ならば納めるなら神の宮にと言うべきです。けれど、それを公言すれば、それはローマからの処罰の対象となってしまいます。本音を言えば、不満がある。けれどそれは表立っては言うことのできない問題。それを彼らはわざわざ神殿の庭、民衆たちの面前で問い質すのです。
彼らはイエス様がカエサルに歯向かうように誘導しているのです。民衆たちの期待は、イエス様が王となり神の国を取り戻すことにあります。エルサレム入城の大熱狂は、ローマへの不満の裏返しです。ですから、彼らの支持を得ようとするならば、カエサルを否定しなければならないのです。だからこそ、彼らは訴える機会を見出せます。ところが、イエス様は税金を治めること云々について直接には語らず、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と語られるのです。
当時デナリ銀貨の表には「皇帝ティベリウス・神と崇められた皇帝アウグステゥスの子」と刻まれていました。その裏には皇帝の母親の顔が刻まれており、彼女は「平和の女神の化身」と言われていたそうです。ローマの国の税金はこのデナリ銀貨で納めることが決められておりました。一方で、神殿に献げるときにはこのデナリ銀貨は用いることはできません。それは偶像礼拝に当たるからです。それらは明確に分けられておりました。ですから注目すべきは、イエス様が「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。」と言われた点です。コインの肖像を確認させるためですが、このニュアンスからは、彼らが今まさに持っている銀貨であることがわかります。けれどこれは不思議です。神殿に仕える者は基本的に神殿に献げられたものから頂いているのではなかったでしょうか。そして神殿に献げられるものにデナリ銀貨は含まれていないのではなかったでしょうか。では、なぜ彼らはデナリ銀貨を持っているのでしょう。つまりは彼らもまたローマに税金を納めていたわけです。彼らもローマの支配を当然のように受け入れ、折り合いを付けていたのです。もう彼らの中では、答えを持っているのです。にも拘わらず、イエス様にあなたは神と皇帝とどちらの支配に従うのか。と問うているのです。
カエサルのものと神のもの。地のものと天のもの。その境界線はどこにあるのでしょう。究極的な話をすれば、神によって造られたこの世界のあらゆるものは神のものなのです。けれど、地上にあって、私たちはその所有が認められています。ですからそれは祭司長たちがそうであったように、一人ひとりが信仰によって線引するものなのです。
けれど聖書の中には明確にそれが誰のものであるか記されているものがあります。それが私たち人間です。イザヤ43:1には「だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。』」とあります。ここに関しては、あやふやな境界線はありません。はっきりと「あなたはわたしのもの」と告げられるのです。
ですから問題は、神のものであるはずの私たち自身に別の名を刻んではいないかということなのです。カエサルの名が刻まれていると言う人は流石にいないでしょうが、日本と言う名、会社という名を刻んでいる人はいるかもしれません。私は私だと、自分の名を深々と刻んでいる人もいるでしょう。けれどそれら名は、神の名に上書きしても良いものでしょうか。神のものか、カエサルのものか。それは私にどんな名前が刻まれているかによって決まるのです。
イエス様の譬え話に反発する祭司長たちはイエス様を捕えようと、義人を装った回し者を送り込みました。彼らは当時の税金問題をイエス様に質問いたします。「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
この当時、ユダヤはローマの直轄地となってましたから、当然、税金はローマに納められていました。それは神の民であるユダヤ人には到底受け入れがたいことです。しかし、律法に照らせば、全ては神の支配の下にあり、全ての物は神から来るところです。富もまたそうです。ならば納めるなら神の宮にと言うべきです。けれど、それを公言すれば、それはローマからの処罰の対象となってしまいます。本音を言えば、不満がある。けれどそれは表立っては言うことのできない問題。それを彼らはわざわざ神殿の庭、民衆たちの面前で問い質すのです。
彼らはイエス様がカエサルに歯向かうように誘導しているのです。民衆たちの期待は、イエス様が王となり神の国を取り戻すことにあります。エルサレム入城の大熱狂は、ローマへの不満の裏返しです。ですから、彼らの支持を得ようとするならば、カエサルを否定しなければならないのです。だからこそ、彼らは訴える機会を見出せます。ところが、イエス様は税金を治めること云々について直接には語らず、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」と語られるのです。
当時デナリ銀貨の表には「皇帝ティベリウス・神と崇められた皇帝アウグステゥスの子」と刻まれていました。その裏には皇帝の母親の顔が刻まれており、彼女は「平和の女神の化身」と言われていたそうです。ローマの国の税金はこのデナリ銀貨で納めることが決められておりました。一方で、神殿に献げるときにはこのデナリ銀貨は用いることはできません。それは偶像礼拝に当たるからです。それらは明確に分けられておりました。ですから注目すべきは、イエス様が「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。」と言われた点です。コインの肖像を確認させるためですが、このニュアンスからは、彼らが今まさに持っている銀貨であることがわかります。けれどこれは不思議です。神殿に仕える者は基本的に神殿に献げられたものから頂いているのではなかったでしょうか。そして神殿に献げられるものにデナリ銀貨は含まれていないのではなかったでしょうか。では、なぜ彼らはデナリ銀貨を持っているのでしょう。つまりは彼らもまたローマに税金を納めていたわけです。彼らもローマの支配を当然のように受け入れ、折り合いを付けていたのです。もう彼らの中では、答えを持っているのです。にも拘わらず、イエス様にあなたは神と皇帝とどちらの支配に従うのか。と問うているのです。
カエサルのものと神のもの。地のものと天のもの。その境界線はどこにあるのでしょう。究極的な話をすれば、神によって造られたこの世界のあらゆるものは神のものなのです。けれど、地上にあって、私たちはその所有が認められています。ですからそれは祭司長たちがそうであったように、一人ひとりが信仰によって線引するものなのです。
けれど聖書の中には明確にそれが誰のものであるか記されているものがあります。それが私たち人間です。イザヤ43:1には「だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。』」とあります。ここに関しては、あやふやな境界線はありません。はっきりと「あなたはわたしのもの」と告げられるのです。
ですから問題は、神のものであるはずの私たち自身に別の名を刻んではいないかということなのです。カエサルの名が刻まれていると言う人は流石にいないでしょうが、日本と言う名、会社という名を刻んでいる人はいるかもしれません。私は私だと、自分の名を深々と刻んでいる人もいるでしょう。けれどそれら名は、神の名に上書きしても良いものでしょうか。神のものか、カエサルのものか。それは私にどんな名前が刻まれているかによって決まるのです。