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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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230903 ルカ20:27-40 「生きている者の神」

ルカ20:27-40 「生きている者の神」

 前回のパリサイ人やヘロデ党の者に続き、今度はサドカイ派の人々がイエス様を陥れようとやって来ます。イエス様を訴える口実を設けるために、様々な立場の者達がこの過ぎ越しの機会を狙っていたのです。と言うのも、この機会を逃すと、イエスはガリラヤに帰って大勢を率いて反乱を犯すかも知れない。もしくは雲隠れするかもしれない。今ならローマ総督のピラトもエルサレムに滞在しています。イエスを捕らえて裁くにはこの過ぎ越しの祭りが絶好の機会なのです。
 サドカイ人の多くは政治の中枢にいる人々によって構成されておりました。彼らにとっての興味は政治であり、現実社会です。そのため彼らの信仰は極めて合理的でした。最低限のモーセの律法(モーセ五書)は信じていましたが、それ以外の預言書や歴史書はもちろん、ラビたちの教えや伝承にいたるまで一切を否定しておりました。ですから、彼らは復活の教理を信じていません。復活を明確に教えるのはイザヤ書やダニエル書などの預言書ですが、彼らにとってはそれは正典ではありません。それは聖書の教えではない。それが彼らの言い分でした。目に見えるものを信じる現実主義者の彼らには、人は死んだら終わりだったのです。
 さて、サドカイ人は申命記25:5-10にある死んだ兄の妻に子がいない場合の再婚の規定を持ち出してイエス様に質問いたします。これ自体は家系を絶やさないための規定で、ユダヤではレビレート法と呼ばれていた決まりです。家の断絶を防ぎ、財産を近親者に残し、そして妻の不幸を緩和するという目的であり、家系を重んじるユダヤ人にとって、とても重要な法律だったわけです。しかし、この律法を復活の教理と重ねて考えると、少々やっかいなことになりました。つまり、復活がもし本当に起こるのなら復活後の夫婦関係はどうなるのか、という問題が浮かんでくるのです。復活後の妻はどの夫の妻かという問題です。
 イエス様は復活の後は死ぬことが無いので、めとることも嫁ぐこともないと答えられます。つまり復活後の議論にレビレート婚を持ち出すのは意味をなさないと言っているのです。当時結婚の最大の目的は子を設けることだったわけで、レビレート婚はそのための救助法です。けれど、復活の世界は死も苦しみもない世界。それはつまり跡取りや世継ぎを心配する必要のない世界ということです。跡継ぎが無いために妻が家から放り出されたり、財産を不当に失うことなど起こり得ない世界です。そこに生前の律法を持ち出して来ても、それは全く意味を成さない議論なのです。
 サドカイ人たちの間違いは、復活の世界を、今のままの世界の延長と思い込んでいることです。けれど、復活の世界は罪の影響を持った今とは全く違います。復活して私たちは、新しい命へ、朽ちない者へと生まれ変わるのです。復活のとき、私たちは御使いのように神の栄光を帯びた者へと変えられているのです。
 またイエス様はモーセが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んだことを挙げて、「神にとっては、すべての者が生きている」と言われます。モーセがそのように呼ぶのは神がそのようにご自身を紹介したことに由来しますが、これはつまり、神は今まさに「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でもあるということです。それは神様が確かに死んで葬られた彼らを、今生きている者として見ているということです。死で終わりというようには、他ならぬ神様が見ておられない。神様は死んで、その者を甦らせ、その豊かな交わりのうちに置いてくださる。ここに希望があるのです。
 それにしてもサドカイ人たちはなぜそこまでも頑なに復活を否定したのでしょう。復活を否定してそこに何の希望もないということは明らかなのにです。それは彼らに御言葉から聞く姿勢がなかったからです。マルコの福音書では「神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。」と手厳しく彼らの御言葉に対する姿勢を批難しています。彼らは自分たちの都合の良い御言葉のみをめくり、御言葉に聞く姿勢を持っていなかったのです。これは私たちにとっても教訓です。御言葉に真摯に聞くことがなければ、復活という私たちの根本と言うべき希望すら見えなくなってしまうのです。

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