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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160206 へブル11:23-27 「権力を恐れず」

へブル11:23-27「権力を恐れず」

 モーセが産まれた当時、増えすぎたイスラエル人に脅威を感じたエジプトの王は、イスラエル人の男の子が産まれととき、ナイル川に流すようにと命令を下していました。つまりは殺すようにということです。そしてもちろん、命令に逆らえば、その子はもちろん両親も処罰されました。民は泣く泣く従うしかありません。しかし、モーセの両親は赤ん坊を3か月間も匿います。そして、いよいよ隠し切れなくなると、パピルス製のかごに入れて川に流すのでした。一見、手に負えなくなって諦めたのだと思えます。けれど、そうではありません。へブル書の著者はこれが「信仰によって」といいます。彼らは諦めたのではなく信仰を持って赤ん坊を川に流すのです。彼らが王の命令を恐れない理由は「その子の美しいのを見たから」とあります。親にとってわが子が美しいのは当たり前。けれどここでは、どうも単にかわいい、美しいと言っているのではなさそうです。使徒7:20には「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、」とあります。ここの「かわいらしい子」は、口語訳や新共同訳では「美しい子」と訳されています。今日の箇所と同じ言葉です。で、このかわいらしい子という表現の前に、「彼は神の目にかなった」とあります。つまり、ただ単に親の目から見て「美しい」とか「かわいい」のではなくて、神の目に美しい、神の目にかわいい子だった。神に愛でられた子だったというわけです。
 考えてみますと人が最も輝くのは、造られた目的に沿って生きるときです。造られた方の手の内にあるとき、そのものは最も美しくある。これを『用の美』と言います。ある陶芸の展覧会での話。訪れたお客さんに、きらびやかな如何にも高価なお茶碗で、実際にご飯を盛って振る舞ったのだそうです。もったいない!けれどそこには、お茶碗はご飯を盛ってこそ美しいという陶芸家の意向があったからです。人も同じです。用の美です。モーセの両親は、まだ乳飲み子のモーセに「用の美」を見るのです。彼らは神を見上げ、わが子の内に神のご計画を見ます。神に用いられるわが子の美しさ。だから彼らは信仰を持ってわが子を川に流すことができた。ご承知のように、川に流されたモーセは、エジプトの王の娘に拾われて王族として引き取られることとなるのです。
 さて、モーセはパロの娘の子として何不自由なく育ちますが、やがて、その身分を捨てて、イスラエル人をエジプトから脱出させるために奮闘します。25節に「はかない罪の楽しみを受けるよりは」とあります。それは「エジプトの宝」、つまりこの世の富や名声という意味でしょう。それはやがて失われるものです。だからはかない。彼はそうではなくて、永遠を見ていた。より大きな宝を見ていた。ですから、彼は王の一族の身分を捨てて、イスラエルとともにエジプトを出ることを決断したのです。それは王に逆らうことです。しかし、彼は王の怒りを恐れません。彼は目に見えない方を見ていたからです。
 今日の箇所を通して見てわかること。それはこの世のあらゆる力を恐れないで生きるには、その目を見えないものに向ける必要があるということです。目に見えるものこそが確かと私たちは思っているかもしれません。確かに見えるものは今そこにある現実です。これ以上確かなものはないように思います。けれど、見えるものはやがて朽ちるものなのです。その時代に縛られた価値観です。それは確かなようでいて、不確かなものです。一方、見えないものは永遠です。今、価値観を強要しようとする時代が近づいてきています。権利が義務に上書きされる様子を私たちは見ています。けれど、このような時代だからこそ、私たちが見るのは、むしろ朽ちない確かなものでなければなりません。永遠に変わることのない福音こそが、私たちの拠り所です。

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