230910 ルカ20:41-44 「主に並び立つ者はなし」
ルカ20:41-44 「主に並び立つ者はなし」
ダビデ自身が「私の主」と告白するのですから、救い主がダビデの子のはずがない。これはそのままであります。「ダビデの子」を文字通り取れば、それはソロモンのことになります。けれど律法学者たちもまさかソロモンが救い主だとは思っていません。「ダビデの子」を大きくとらえれば、それはダビデの子孫たち。つまりダビデの家系という意味です。律法学者たちが「キリストをダビデの子」と言うのは、救い主がダビデの家系から出るという意味なのです。
イエス様はこれを否定しているわけではありません。それは聖書でもしばしば預言されてきたことですし、事実イエス様はダビデの家系なのです。ですからイエス様が否定するのは、ダビデの子孫から救い主が出るということではなくて、人々が「ダビデの子」と呼ぶときに含まれる救い主のイメージ。これを否定するのです。つまり彼らが救い主を「ダビデの子」と呼ぶ時、そこにはダビデ王の再来のイメージ。イスラエルの最も輝かしい時代を築いたダビデの王国の復興を願う気持ちが込められていたのです。民衆たちにこのような救世主観を教えていたのは他ならぬ律法学者です。特にパリサイ派の律法学者たち。彼らは神の民であるイスラエルが異教国家ローマに支配されているというこの現実を耐え難い思いで耐えておりました。彼らの願うところは、ダビデ王国のような、神を中心とした信仰ある王による国の統治。それこそが彼らの願いだったわけです。イエス様はここで、このような律法学者たちの教えを否定しているのです。
ダビデ自身が「私の主」と告白しているのに、主がダビデの子孫のはずはないではないか。単純ですが、それだけに反論の仕様のない指摘でした。ここでイエス様は、では具体的に救い主がどのようなお方なのか、どのような王国を確立されるのかについては語っておられません。一つだけ語られるのは、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるということでした。つまり人々の最も尊敬するダビデ。そのダビデを遥かに凌駕する救い主が来られるということを語っているのです。ダビデの王国は確かに素晴らしいものでした。しかし、救い主はダビデの王国を復興するために来るのではありません。新しい神の国を確立するために来られるのです。それは、地上的な、政治的な方法で人々を解放するということではなくて、人々を永遠の問題から解放するということ。人類の敵である死を打ち滅ぼし、サタンをも平伏させるお方が来られるということです。そしてその方こそがイエス・キリストに他なりません。
では、私たちが本日の話から、学び、気をつけなければならないことはなんでしょう。一つは、イエス様が仰るとおり。主の前には誰も並ぶ者はいないということです。ダビデは確かに偉大な指導者です。ダビデ王国は最も輝かしい歴史です。しかし、ダビデ自身が告白しています。主はそれとは比べようのない偉大な方であり、新しい王国は地上のそれとは比較にならないくらい素晴らしいものなのです。罪の始まりが、人が神に取って代わることだったからもわかるように、私たちはすぐに自分を神と並べてしまう者です。けれど、主に並ぶべき者は誰もいないのです。
そして、もう一つ。それは神の御声を聞くことの大事です。律法学者が旧約の預言をダビデ王国の復興としか読めなかったのはなぜでしょうか。それは、そこに彼らの願望があったからです。神の御心ではなくて、自分たちの願いを御言葉に読み取った。だから謝った救い主信仰が生まれたのです。私たちは時に、御言葉を都合良く受け取ろうとすることがあるのです。私の願望を正当化してくれる御言葉を探します。けれど、そういった思いを全て置いて、フラットに御言葉に聞くことが大事です。
ですから、私たちは独りよがりにならないように、教会の交わりの中でこれに聞かなければなりません。聖書さえ読んでいれば、祈りさえしていれば、交わりはいらないというのは危険です。私たちはこの交わりの中で、互いに教え教わりながら御言葉に聞くのです。相談しながら、教えながら、時に助け、時に助けられ、共に喜び悩みながら、主に仕えていく。そのような試行錯誤の中で、私たちは愛することを学び、そして愛されることを学ぶのです。自分を捨てて主を選び取るとき、この方が、ご自身の命を投げ出して私たちを選ばれたこと、私たちに徹底的に仕えられたことを知るのです。
ダビデ自身が「私の主」と告白するのですから、救い主がダビデの子のはずがない。これはそのままであります。「ダビデの子」を文字通り取れば、それはソロモンのことになります。けれど律法学者たちもまさかソロモンが救い主だとは思っていません。「ダビデの子」を大きくとらえれば、それはダビデの子孫たち。つまりダビデの家系という意味です。律法学者たちが「キリストをダビデの子」と言うのは、救い主がダビデの家系から出るという意味なのです。
イエス様はこれを否定しているわけではありません。それは聖書でもしばしば預言されてきたことですし、事実イエス様はダビデの家系なのです。ですからイエス様が否定するのは、ダビデの子孫から救い主が出るということではなくて、人々が「ダビデの子」と呼ぶときに含まれる救い主のイメージ。これを否定するのです。つまり彼らが救い主を「ダビデの子」と呼ぶ時、そこにはダビデ王の再来のイメージ。イスラエルの最も輝かしい時代を築いたダビデの王国の復興を願う気持ちが込められていたのです。民衆たちにこのような救世主観を教えていたのは他ならぬ律法学者です。特にパリサイ派の律法学者たち。彼らは神の民であるイスラエルが異教国家ローマに支配されているというこの現実を耐え難い思いで耐えておりました。彼らの願うところは、ダビデ王国のような、神を中心とした信仰ある王による国の統治。それこそが彼らの願いだったわけです。イエス様はここで、このような律法学者たちの教えを否定しているのです。
ダビデ自身が「私の主」と告白しているのに、主がダビデの子孫のはずはないではないか。単純ですが、それだけに反論の仕様のない指摘でした。ここでイエス様は、では具体的に救い主がどのようなお方なのか、どのような王国を確立されるのかについては語っておられません。一つだけ語られるのは、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるということでした。つまり人々の最も尊敬するダビデ。そのダビデを遥かに凌駕する救い主が来られるということを語っているのです。ダビデの王国は確かに素晴らしいものでした。しかし、救い主はダビデの王国を復興するために来るのではありません。新しい神の国を確立するために来られるのです。それは、地上的な、政治的な方法で人々を解放するということではなくて、人々を永遠の問題から解放するということ。人類の敵である死を打ち滅ぼし、サタンをも平伏させるお方が来られるということです。そしてその方こそがイエス・キリストに他なりません。
では、私たちが本日の話から、学び、気をつけなければならないことはなんでしょう。一つは、イエス様が仰るとおり。主の前には誰も並ぶ者はいないということです。ダビデは確かに偉大な指導者です。ダビデ王国は最も輝かしい歴史です。しかし、ダビデ自身が告白しています。主はそれとは比べようのない偉大な方であり、新しい王国は地上のそれとは比較にならないくらい素晴らしいものなのです。罪の始まりが、人が神に取って代わることだったからもわかるように、私たちはすぐに自分を神と並べてしまう者です。けれど、主に並ぶべき者は誰もいないのです。
そして、もう一つ。それは神の御声を聞くことの大事です。律法学者が旧約の預言をダビデ王国の復興としか読めなかったのはなぜでしょうか。それは、そこに彼らの願望があったからです。神の御心ではなくて、自分たちの願いを御言葉に読み取った。だから謝った救い主信仰が生まれたのです。私たちは時に、御言葉を都合良く受け取ろうとすることがあるのです。私の願望を正当化してくれる御言葉を探します。けれど、そういった思いを全て置いて、フラットに御言葉に聞くことが大事です。
ですから、私たちは独りよがりにならないように、教会の交わりの中でこれに聞かなければなりません。聖書さえ読んでいれば、祈りさえしていれば、交わりはいらないというのは危険です。私たちはこの交わりの中で、互いに教え教わりながら御言葉に聞くのです。相談しながら、教えながら、時に助け、時に助けられ、共に喜び悩みながら、主に仕えていく。そのような試行錯誤の中で、私たちは愛することを学び、そして愛されることを学ぶのです。自分を捨てて主を選び取るとき、この方が、ご自身の命を投げ出して私たちを選ばれたこと、私たちに徹底的に仕えられたことを知るのです。