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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160327 ルカ24:1-8 「よみがえりのイエス」

ルカ24:1-8 「よみがえりのイエス」

 空っぽの墓を覗いたマリヤたちは、呆然といたします。イエスさまの亡骸が無くなっていたからです。愛するイエスさまの葬りさえもできない。彼女たちを襲った悲しみはいかほどであったことでしょうか。しかし、そこに御使いが現れて言います。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」亡骸が無くなったのは当然です。よみがえられたからです。ここに空っぽの墓を見る2つの視点があります。マリヤたちがそこに亡骸を捜すとき、空っぽの墓は絶望でしかありませんでした。しかし、主がよみがえられたという事実を受け入れて、もう一度同じ墓を見るときに、空っぽであるということがイエスさまのよみがえりの希望となったのです。
 実はこのことは、私たちにも当てはまることです。それはつまり、私たちの死というものの見方が変わるということです。
 イエス様がナインという町を訪れたときのことです。町の門から葬儀の行列が出てまいりました。ひとり息子を死なせたやもめの女が、息子の亡骸と共に出てきたのです。やもめと言いますから、過去に旦那に先立たれ、残った息子を懸命に育ててきた女性です。この子が彼女の生きる理由であったことは容易に想像できます。ところがその息子が夫に続いて死んでしまった。この母親の憔悴振りは目に余るものがあったでしょう。周りには大勢の人達が悲しみを共にして歩いておりました。おそらくは誰も何も言わず、静かに死体を運ぶ、この一行であったことでしょう。当然です。彼らには語る言葉がないからです。
 死を前にして人は無力です。どうすることもできない現実がそこにはあります。その人を知れば知るほど、その気持ちがわかればわかるほど、私たちはその悲しみを前にして言葉を失います。安易な慰めの言葉はかえってその人を辛くするように思えるからです。けれど、イエス様は違いました。イエス様には泣く者にかける言葉がある。その母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われたのです。
 泣いている人に「泣かなくてもよい」なんて、普通は言えません。しかし、イエス様は違います。イエス様だけは「泣かなくてもよい」と語ることが出来るのです。なぜなら、イエス様は死に対して全く違う理解を持っておられるからです。私たちは死と言う現実を、どのように見るでしょうか。人生の終わりと見るでしょうか。それは永遠の別れであり、絶望であると見るでしょうか。けれど、イエス様はそのようには見ておられません。死は終わりではなくて、その先に神と共にある永遠がある。死は永遠への通過点である。イエス様は自らよみがえられたことによって、そのことを明らかにしてくださったのです。
 大事なのは、死ではなく、その先に目を向けるということです。マリヤたちは最初、死と言うものを、人生の終わり、永遠の別れと理解していました。ですから、彼女たちは悲しみを抱えて墓に向かいました。そして、その墓が空っぽであったとき、その別れすらできないということに呆然としたのでした。
 ナインのやもめもまた、死と言うものを一切の終わりというように考えていました。ですから、息子の死と言う現実に、ただただ泣き崩れるしかありませんでした。そこには、何の希望もありませんでした。
 けれど死は終わりではない。その先に永遠のいのちがあると、イエス様は言われます。死は終わりの絶望ではなくて、通過点です。確かに、地上の歩みにあって、それは別れです。けれど、それは永遠の別れじゃない。いっときの別れ。やがて再会することが約束されている別れです。ですから、私たちは愛する人の死に悲しむのですけれども、その悲しみと共に、希望もまた見ることができるのです。そして、私たちは、それが絶望ではないということを知るからこそ、いつ訪れるのかわからない死をいつも恐れる必要がない。私たちは先を見て、今を安らかに生きることが出来るのです。

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