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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160403 ヘブル11:32-40 「信仰によってあかしされる」

ヘブル11:32-40 「信仰によってあかしされる」

 へブル書11章は信仰の勇者たちを数え上げて信仰に生きることの幸いを教えていますが、今日の箇所は若干雰囲気が違います。と申しますのも、これこれの人たちは信仰によって勝利を得た。という成功譚だけではなくて、信仰の故に迫害に遭う。苦しみを経験する。という苦々しい経験を告白しているからです。このことは何を意味しているのでしょうか。それはつまり、信仰というのは、私たちの人生の幸せを約束する類のものではないということです。
 私たちはどこかで信仰が幸せを生み出すと考えてはいないでしょうか。そして、変わらない日常の中で、私が不幸なのは信仰が足りないからだとか、信仰のないあの人よりも私が不自由な生活をしているのはおかしいとか、そんな風に感じることはないでしょうか。もちろん、幸せをどのような意味で捉えるのかという話ではありますが、私たちは日常生活をもっと楽に、自由にするための必須アイテムとして信仰というものを考えしまうことがあるかもしれません。しかし、それは聖書の語るところなのでしょうか。
 聖書は、からし種ほどの信仰があれば山をも動かせると言っています。信仰の量が私たちの幸せの度合いを決めるなんてどこにも言っていません。信仰のゆえに祝福が与えられることもあれば、信仰のゆえに苦難が振りかかることもある。これが聖書の語るところです。
 では信仰に生きるということに、いったい何の意味があるのでしょう。
 イエス様が道を歩いておられた時に、生まれついての盲人を見られたことがあります。すると弟子たちがイエス様に聞きました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」弟子たちには、信仰が無ければ不幸になる。信仰があれば幸せになれる。という単純で乱暴な考えがありました。けれどイエス様は言います。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
 私たちも、信仰の故に神の奇跡を体験することもあるでしょう。逆に信仰の故に迫害に遭ったり、この世の苦難を味わうこともあるでしょう。現実の生活が上手くいかないとき、私たちはそれを罪のせいだと責めがちです。不幸な出来事が続くとき、私たちは信仰の足りなさを嘆きます。思いがけない神の奇跡に出会ったとき、私たちは信仰を誇ります。けれどどちらが良い悪いではありません。信仰によって病が癒されることも神の証しだし、苦難の内で信仰に寄り掛かることもまた神の証しです。すべて神の栄光を表す生き方なのです。

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