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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160417 ヨハネ5:10-18 「出る杭は打たれても」

ヨハネ5:10-18 「出る杭は打たれても」

 ベテスダの池での癒しの出来事を発端として、騒動が起こりました。と言いますのも、それが安息日での出来事だったからです。癒された男が床を上げた。それがユダヤ人から安息日の規定に背いたと見なされたのです。責められた男は、自分を癒した方に従っただけと弁解します。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」当然、ユダヤ人たちの矛先はこれを命じた者に向くわけです。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」すると驚くことに、彼はイエス様のことを覚えていなかったのです。なるほど、彼が簡単に責任を転嫁するのは、彼が自分を癒した方を覚えていなかったという責任の軽さから来たのかもしれません。覚えていないけど嘘ではないし、覚えていない以上誰も責められることはない。だから、あの人が言ったと答えておこう。けれどユダヤ人たちがそれで大人しく引き下がるはずはありませんでした。よっぽど脅されたのでしょう。彼は後にイエス様と再会し、自分を癒したくださった方がどなたかを知りますが、すぐにそのことをユダヤ人に報告いたします。結果、ユダヤ人たちは、イエス様を迫害することとなったのです。
 もう一つユダヤ人たちが我慢ならないことがありました。それはイエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」とご自身の行動の根拠を語られたことです。イエス様が全知全能の神を父と呼ぶ。イエス様がご自身を神と同様に語られる。このことが神への冒涜と映ったのです。ユダヤ人たちはそれゆえイエス様に対する殺意を覚えるようになるのです。
 ユダヤ人たちは大まじめです。神が命じられたことを、神が命じる以上に。彼らは自らが神の代理として人々を裁きます。しかし、思うのです。彼らの目には、この男の癒しがどのように映っていたのだろうかとです。彼らが問い詰めるその男は38年もの間、病に苦しんでいたのです。迷信にすがりつくことしかできないほどに、希望なく過ごしてきたのです。もはや誰の記憶からも関心からも消え去られていた、そんな人物です。そんな彼が癒された。なぜ、彼らはこの男性にもたらされた癒しの奇跡を一緒に喜べないんでしょう。ユダヤ人たちには、この人が癒されたということよりも、安息日が守られるかどうかが重要でした。また神のみこころに適っているのかということよりも、神を父と呼ぶことが問題でした。つまり彼らの信仰の秩序をひっくり返してしまうイエス様に対して、変化を望まない古い体制の人々がこれを否定したというわけです。
 考えてみますと、それが世の反応ではないでしょうか。私たちが正しさを主張して生きれば、必ず反発が起こるのです。自分の信じるところに生きるのではなくて、長いものに巻かれること。和を乱さないことが尊ばれるのが世の中なのです。イエス様のように、それまでの秩序を乱す行為は、たとえそれがどれだけ正しく素晴らしいとしても煙たがられるのです。ですから、私たちは覚悟をすべきです。たとえ出る杭は打たれようとも、私たちは神のみこころに適う歩みをしなければなりません。厳しいですね。そんなに無理しなくてもいいよ。と言ってくれたらいいのに。無理して他人とぶつかるよりも適当に妥協して、目をつむって、平日はクリスチャンであることを忘れていてもいいですよ。と言ってくれたらどれだけ楽かと思いますのに。
 けれど、その論理で行きますなら、私たちに救いはありませんでした。イエス様がこの世の秩序ではなくて、神のみこころに生き、死なれた。だからこそ、私たちは救われたのです。私たちがこの生き方を否定するなら、それは私たちの救いを否定することになるのです。ですから、私たちはイエス様の歩まれた道を歩まねばなりません。私たちは他人と違うことを恐れる必要はありません。ただ父のみこころから逸れることを恐れるべきなのです。

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