FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

160529 ヨハネ6:16-21 「主とともにある平安」

ヨハネ6:16-21 「主とともにある平安」

 ガリラヤ湖は突風や嵐で有名な湖でした。ヘルモン山などの広大な高原から峡谷を通って下りてきた冷たい空気が、湖面からの暖かい空気とぶつかって、しばしば突風や嵐を引き起こすのだそうです。ですから、ガリラヤ湖の漁師たちは、このガリラヤ湖の難しい天候を読みまして、漁をしていたわけです。当然、このようなお天気事情は、弟子たちのよく知るところでした。何せ、弟子の何人かは、元々このガリラヤ湖の漁師でした。ですから、イエス様が彼らに、向こう岸に漕ぎ出すようにと命じられたとき、彼らはその雲の流れや風の向き、これから先の天候を読みまして、一抹の不安があったと思うのです。ではなぜ彼らは湖に漕ぎ出すのでしょう。もちろん、イエス様がお命じになられたからです。たとえ危険を冒してでも、イエス様のおっしゃるとおりにしよう。従おう。と彼らは考えたのです。それは彼らの信仰の決断でした。たった今、5千人給食の奇跡を目の当たりにした彼らは、この方が人知を超えた方であることに興奮したのです。
 ところが、そんな信仰に燃えて、意気揚々と出て行ったにもかかわらず、彼らは嵐に遭遇するのです。これは驚くべきことではないでしょうか。イエス様が命令に従ったのだから、当然、安全であるべきと私たちは思います。ところが、実際にはたとえ信仰による決断だとしても、嵐が起こるのです。私たちはどこかこんな風に思うことはないでしょうか。何かを決断する時、「これは自分の願いではなくて、信仰による決断なのだから、上手くいかないはずはない。」とです。そして、自分の思うような結果が訪れるとき、話が違うじゃないかと神に恨み言を言うのです。特に、自分の損得を犠牲にして決断した時は尚更です。弟子たちもそうでした。信仰によって従ったのです。そして、その結果、嵐に遭遇した。ですから、今日の箇所は、信仰によって従うとき、私たちは嵐に遭わないですよ、と教えているのではありません。嵐に遭うその時に、どのように対処すべきか。どうあるべきか。を教えているのです。
 必死になって漕ぎ続ける彼らのもとに、イエス様が湖の上を歩いて近付いてこられます。すると彼らはその姿を見て恐れるのです。マルコでは、弟子たちがイエス様のことを幽霊だと思って恐れたことが記されています。辺りは月明かりのみ。相変わらず強風が吹き、波が荒れ狂っています。そんな中、人が音も無く湖の上を歩いている。普通に考えると恐いですね。思わず幽霊だと叫んでも仕方がない場面です。
 しかし、そうではないのです。確かに暗い中です。嵐が吹き荒れています。疲れ切っています。舟は上下左右に揺れ動いて、じっと直視することなど適いません。けれど、問題はそこじゃない。彼らがイエス様を見て、幽霊だと思ったその一番の問題は、彼らの中に、イエス様がこんなところにいるはずがない。という決めつけがあったことです。こんな嵐の中、湖の真ん中に、イエス様が来るはずがない。来れるはずがない。だから彼らはイエス様を見て、尚、イエス様だと気付かない。幽霊だと恐れたのです。そして、だからこそイエス様は彼らに言うのです。「わたしだ。恐れることはない。」
 今日の箇所は、私たちが嵐の中でこそ、その信仰が試されるということを教えています。そしてもう一つ、主イエスはどのような嵐の中も確かに歩み寄ってくださる方であることを知るのです。私たちが置かれている状況がたとえどのような嵐であろうとも、それはイエス様にとって何の障害にもなりません。むしろ私たちは試練の中で主イエスの恵みに触れるのです。試練の中でしか気付くことのなかった主イエスの平安を得るのです。

コメント

非公開コメント