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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160605 へブル12:4-13 「父の懲らしめ」

へブル12:4-13 「父の懲らしめ」

 聖書は子育てについて、次のように言っています。箴言13:24「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」我が子を溺愛して何でも言いなりになる親がおりますが、子どもが間違ったことをしても見て見ぬ振りをするならば、それは本当の意味で子を愛していることにはなりません。懲らしめることは、事の善悪を教えることです。善悪を知らぬ者は簡単に悪事を犯しますが、それは知らなかったではすみません。例えば、母国では大丈夫だったからと言って、日本で拳銃を所持していれば、それは銃刀法違反。知っていようがいまいが捕まってしまうのは当然のことです。知らないことは罪です。ですから、親は子に厳しくむちを与えなければなりません。正しい善悪の基準を教えなければならないのです。
 今日の箇所で著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と指摘しています。罪とは自我のことです。自我と戦って、抵抗したことがない。という意味です。へブル人への手紙はユダヤ教に引き戻そうとする人々の迫害に遭い、心揺れ動いている、そんなクリスチャンに宛てられた手紙です。彼らは目の前の困難のゆえに、イエス・キリストの贖いに自信を失い、信仰を捨てようか、はたまた妥協して過ごそうかと思い悩んでいる人々。そんな彼らに、自分自身の弱さと向き合って、戦いなさい。抵抗しなさい。と勧めているのです。
 神を信じ、キリストの贖いのゆえに、神の子とされた私たちは、もはや自分の願い通りに生きるのではなく、父なる神のみこころに生きることが求められています。けれど、それはやはり私たちにとっては苦痛です。面倒です。私たちはやはり自分の願うとおりに、好きなように自由に生きたいと思うのです。ですから少々のためらいや後ろめたさを感じながらも、これくらいは仕方ないよねと、簡単に罪に妥協してしまうのです。聖書の言葉は、時として、私たちの心を射抜きます。私たちの弱さや妥協、保身の思いを貫いて、私たちに仕えること、捨て去ることを求めます。ですから信仰を持って生きることは、この世にあっては、ある種の不自由さを感じることのように思えます。
 けれどです。聖書は、これを「主の愛する者への懲らしめ」だと言うのです。地上における信仰の歩みの実践は、将来に向けての大切な訓練だと言うのです。今だけを見れば、それは不自由に映るでしょう。けれど、もっと長い視点で今を見るとき、この懲らしめが私たちを救うのです。父親の懲らしめは子にとっては不自由なものです。けれど、それがあるから、私たちは道を間違えないで済みます。より大きな過ちを避けることができます。箴言5:22「彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。」とある通りです。
 私たちにとって信仰生活は不自由なものでしょうか。神のことばは面倒でしょうか。しかし、そこに留まることが私たちの平和なのです。小さな子どもは親の目がある中では自由に振る舞います。ところが、親の目が見えなくなると途端に不安になって、思うことができなくなります。子どもは親の懲らしめが、自分たちを守るものであることを本能的に知っているのです。私たちは神の目の中で過ごさなければなりません。私たちが罪と戦って、血を流すまで抵抗するためには、神の見守りの中に身を置かなければなりません。神が見守ってくださっている。だから、私たちは罪と向き合うことができるのです。そこに踏みとどまることができるのです。子を懲らしめるのは親の愛です。父なる神は私たちを心から愛し、懲らしめ、見守っていてくださるのです。

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