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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160612 ヨハネ6:22-40 「いのちのパン」

ヨハネ6:22-40 「いのちのパン」

 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して乾くことがありません。」とイエス様はおっしゃいました。この背景には、イエス様を間違って理解していた人々の存在があります。5千人給食の出来事を経験して、人々はイエス様に着いていけば食べさせくれると期待して追い回すのです。けれどそれはイエス様の意図するところではありません。イエス様はもっと根本的な問題を指摘しています。
 それは私たちの存在の欠けについてです。それは人生の空しさと言い換えてもいいかもしれません。私たちは人生のふとした瞬間に、生きることへの空しさを覚える者なのです。私たちは精一杯生きています。精一杯仕事をし、精一杯家族に尽くし、精一杯勉強をし、精一杯奉仕しています。誰かの役に立って、誰かから感謝されて、私たちは自分が必要とされている。自分はここにいてもいい存在なんだと知れるからです。けれど、実際は、どれだけ精一杯に頑張っても満たされない思いがあります。わかってくれない。認めてもらえない。そうすると、私たちは自分の存在が急にちっぽけなものに見えてくるのです。自分は誰からも必要とされていないんじゃないだろうか。自分はいったい何のために生きているのか。
 しかし、それも当然なのです。なぜならこの心の隙間は、本来、創造の神との関係の中で埋まっていたものだからです。私たちは神によって意味ある者、目的ある者として造られました。神と共にある時、私たちはそこに生きる意味を持っていました。ところが、私たちは神から離れてしまった。そしてそれと同時に、本来の存在する意義を失ってしまったのです。だから人は自分が何のために生きているのかわからない。永遠の神を失った欠けは、永遠の神によってでなければ決して埋まることはありません。だからイエス様なのです。イエス様は私たちの贖いとなってくださいました。私たちはイエス様という代価を支払うことで、神に再び立ち返ることが許されます。だからイエス様は私たちの生きるために欠かすことのできないいのちのパンなのです。
 生きる意味がわからないと嘆いていた私たちは、イエス様の尊い犠牲のゆえに、今を生きる意味を取り戻しました。私がここにいる意味を見いだすようになりました。パウロは言います。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7-8)私たちは主のために。これこそが私たちの存在する意味なのです。

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