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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160703 へブル12:14-17 「聖さを追い求めて」

へブル12:14-17 「聖さを追い求めて」

 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。平和と聖められることが平行して勧められています。平和というのは争い事から離れた状態のことです。そして聖という言葉はもともと分離するという意味です。それは悪から離れて、神との関係を持つ。これが聖です。ですから、この御言葉は、世に対して、神に対して、あらゆる悪から離れて生きなさいという意味です。
 しかしです。悪から離れて生きるとは簡単なようで難しいものです。私たちは少々濁りがあったほうが住みやすいと感じることはないでしょうか。余りにもきれいな部屋に招かれますと、落ち着かないと言いましょうか。多少のことまで全て指摘されますと、息が詰まると言いましょうか。完全な悪はもちろん望みません。けれど、完全な聖は自分自身の居場所を失います。それはどこかで自分が罪と折り合いをつけながら、過ごしているということを自覚しているからです。
 私たちの見えない部分、根の部分に苦さがあるのです。私たちの隠れたところに罪との妥協があるならば、いくら表面を装ってもそれは聖化とはなりません。霊と肉は連動しています。神の前に後ろめたさを持つ者は、現実にも濁った水を求めるものなのです。私たちが神を恐ろしく思う。いつまでたっても平安が得られない。不安がつきまとう。それは、私たちの根が苦いままであるからです。見えないところを明け渡していないからです。表面的にはクリスチャンを装っても、深いところで、この世の価値観を手放せないでいるからです。
 聖化の問題は、根を完全に断ち切らなければなりません。根が残っていれば、どれだけ草を刈ってもすぐにまた生えてきます。大事なのは根こそぎにするということです。神に完全に明け渡すということです。しかし、このことは一朝一夕にできることではありません。聖化は一瞬にしてなる現象ではありません。それは聖なる者と変えられていく過程です。私たちは聖められることを願います。けれど、願うほどにそれとはかけ離れた自分を発見します。そして悩みます。苦しみます。しかし、これこそが実は聖化の歩みなのです。
 愛すれば愛するほど、自身の愛の足りなさを知る。これは真理です。なぜなら愛は神のうちにあるからです。神を見るほどに、私たちの愛がいかに脆いものか、幼いものかを知る。己が神ならぬ者であることを知るのです。そして、神無くしては今日を悔いなく歩めない者であることも。実は聖化の歩みとは、山の頂上を目指して駆け上がっていくものではありません。むしろ谷底を知る。遜っていくものなのです。ですから聖化の歩みとは自我を捨てる過程と言いかえても良いかもしれません。己を捨てた後、そこには何が残るのでしょうか。そこには聖霊がおられます。私たちの内に住まわれる聖霊は、私たちの自我を取り去って、私たちの心と思いを神の恵みへと向けさせるのです。

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