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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160710 ヨハネ6:52-59 「まことの食物、まことの飲み物」

ヨハネ6:52-59 「まことの食物、まことの飲み物」

 二世紀から三世紀、まだローマでキリスト教が国教とはなっていなかった時代、キリスト教の儀式や教えへの誤解からある噂が広まっておりました。キリスト教徒はどうやら人肉を食べ、生き血をすすっているらしい。というものです。ピンと来られた方もおられるでしょう。そうです。聖餐式です。聖餐式は秘められたこととして行われましたから、人々は、彼らが自分たちの一室で、血生臭い、おぞましい儀式をしていると噂したのです。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」とイエス様は言われます。この言葉を素直に聞けば、確かにキリスト者は人肉を食べていると思われてもおかしくありません。事実、これは次週の箇所になるわけですが、弟子たちの中ですら「これはひどいことばだ。そんなことを誰が聞いておられようか。」と言って離れ去った者たちが大勢いたというのです。もちろん、私たちは聖餐式においてイエス様の肉を食べて、その血を飲んでいるわけではありません。私たちが食するのはパンであり、ぶどう液です。けれど、その意味するところは、人の子の肉を食べ、その血を飲むということに他ならない。と、このようにイエス様はおっしゃっておられるわけです。
 1972年10月13日。ウルグアイのラグビーチームのメンバーとその友人や家族が乗った飛行機がアンデス山脈で墜落事故を起こしました。機体は前後に真っ二つとなり、雪に埋もれ、多くの死者を出しました。生き残った者も極寒の中ろくな食事も備えもなく、雪水とたった数枚のチョコレートで飢えを凌ぐ程でした。しかしそれもすぐ底をつきます。彼らは究極の決断を迫られました。生きるために、死体の肉を食べるという決断です。生きるためと言っても、それは彼らのチームメイトであったり、家族であったりです。壮絶な葛藤があったことでしょう。けれど、彼らは、それを食べて生きることを選び取るのです。彼らはその時、誓いを立てます。「もし自分が先に死んだら、必ず自分の死体を食べてくれ。」やがて彼らの中から3人が選ばれ、救助を求めるために下山します。そして事故から72日目、最終的に16名の生存者が救出されたのです。
 この彼らの決断の重さが、実は私たちの聖餐に繋がるものではないかと思うのです。他者のいのちを食べることで、私たちは生きる。これを覚えるのが聖餐式です。私たちは聖餐の折、パンとぶどう酒をいただきます。そして、これがキリストの肉と血の象徴だと聞かされます。それはつまり十字架による贖いとそれによって成る新しい契約であると理解しています。けれど、いかがでしょう。私たちはそれをあまりにも恵みとして当たり前にしてしまって、そこにある犠牲の大きさやそれを食べることの決断の重さを、ついつい忘れてはいないかと思わされるのです。他人に生かされるということは、他人の分まで生きるということです。誰かの犠牲の上に生きるということは、その人の命を背負って生きるということです。もっとも親しい友人の犠牲の上に、私たちは生きていくのです。果たして、私たちにその覚悟がありますでしょうか。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

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