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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160717 ヨハネ6:60-66 「信じる者、信じない者」

ヨハネ6:60-66 「信じる者、信じない者」

 五千人給食を経験し、パンを求めてやって来た人々や、それを批判するユダヤ教指導者たち。イエス様と彼らとのやりとりをつぶさに見ながら、弟子たちの多くの者たちが「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」とつぶやきました。無理からぬことです。彼らはまだ十字架と復活、最後の晩餐すらも経験していません。彼らにイエス様がおっしゃるところは理解できません。
 しかし、どうでしょう。理解できないから信じられないのでしょうか。では理解できれば全てが信じられるのでしょうか。たとえ、全てを説明されたとしても信じない人は信じないし、何もわからなくても信じる人は信じる。そういうものではないでしょうか。
 サッカーでも野球でもそうですが、始めたばかりの初心者の時は、先輩たちがとにかく上手くて、必死に追いつこうと頑張ります。ところが、ある程度経験を積みますと、今度は自分と先輩たちとの距離がはっきりとわかるようになって、愕然としたりするのです。これは神様との関係でも言えることです。私たちは神を知るほどに、神を知り得ないことを知る。ですから私たちは理解したから信じるのではなくて、まず信じたのです。どうでもいいと、捨てたのではありません。神を理解する行程は生涯続きます。けれど、私たちは、理解するしないを飛び越えて、信じるという決断をした者ではないでしょうか。
 ところが、弟子たちの多くが、イエス様の言葉を「ひどいことばだ」と言って吐き捨てたのです。いったい何が酷いのでしょうか。それは彼らの期待に応えないイエス様の言葉だったからです。「ひどい」という言葉はもともと「固い」という意味です。融通が効かない言葉。思い通りにならない言葉。それは彼らにとって何の魅力もない、響かない言葉でした。彼らは今、イエス様に失望したのです。彼らにはイエス様への一方的な期待があったのです。言って欲しい言葉があった。それが実際は違っていた。だから彼らはつまずいたのです。
 では、イエス様が天に上られるのを見たとしたら、彼らは信じるのでしょうか。それは決定的な神の御子である証明です。もはや疑いようのない事実。けれど、今自分の聞きたくない言葉を退ける者が、果たして、キリストの血肉をすすり、その命を背負って生きる覚悟が持てるものでしょうか。仮に彼らがイエス様の昇天を目撃し、イエス様が神の御子であることを知ったとしても、だからそれが即ち信仰と結び付くかと言いますと、決してそうはならないと思うのです。なぜなら、彼らは自分の願うところのイエス様を求めているからです。彼らは彼らの理想をイエス様に見たいのです。ですから、もしその理想から外れるイエス様であれば、たとえ、いかほどの奇跡を見ようとも彼らはそれを認めない。信じない。これって、信仰と呼べるのでしょうか。ですから、彼らは弟子とは言いつつも、実際のところは、イエス様をこれっぽっちも信じていなかったのです。
 いま目の前にいるイエス様、そしてイエス様が語る救い主としてのご自身の働き。それらを無視して、自分の中にある理想をイエス様に要求する。これはもはや罪です。私が神を選びとった。私が神を選択した。もし私たちがそのように考えているとしたらそれは要注意です。私が選んだのなら、手放すのも私です。もし信仰に、そのような逃げ道を用意しているとしたら、私たちの信仰はその曖昧さに足をすくわれることになるでしょう。そうではなくて神が選んでくださったというところに私たちは立ち続けましょう。

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