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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160911 ヨハネ7:10-24 「神から出た教え」

ヨハネ7:10-24 「神から出た教え」

 「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」この当時の教師たちはと言いますと、それぞれがそれぞれの先生に弟子入りするような形で律法を学びました。彼らは宮で朗読される聖書の日課を、居合わせる人々に解き明かすわけですが、この時、彼らが特に重要視したのは、自分たちの解き明かしの根拠。彼らはいつも「ラビ○○はこのように言っている。」と根拠として先達の教えを数え上げるのです。そうすることで、自分たちの言葉に権威を与えていた。あの偉大なラビもこう言っているんですから、私の解説は正しいんですよ。と、こういう具合です。
 ところが、イエス様には師となる先生がいるわけでもないですし、その教えは誰かの受け売りではありません。では、それはイエス様が好き勝手に教えているということなのでしょうか。そうではありません。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」とあります。イエス様の教えは、確かに当時の人々にとっては斬新です。常識外れです。けれど、それはイエス様が何かオリジナルの教えを作り上げているのではなくて、神から出たもの、聖書の言葉を正しく解説しているに過ぎないのです。
 有名な十戒の解釈を巡って、イエス様は教えられました。「殺してはいけない。とあるけれども、心の中で誰かを馬鹿者と呼ぶなら、それは殺しているのと同じですよ。」あれは、イエス様のオリジナルの教えでしょうか。いえ、もともとそういう意味なのです。神の義は私たちの心をも見抜くのです。ですから、それまでも、多くの真の信仰者たちは律法のゆえに苦しんだのです。確かに律法を守って、殺してはいない。十戒を破ってはいない。けれど、それでも神の前には全く胸を張れない自分であることに悩んできたのです。ですから、イエス様の教えは、何もイエス様独自の発案ではありません。そもそもが神のみこころを説いている。だからあなたがたの怒りは、お門違いだ。とこう反論しておられるのです。
 教師たちが特に問題にしていたのは、イエス様が安息日に病人を癒したということでした。けれどイエス様は割礼の例を挙げて、彼らの矛盾を指摘します。イスラエルの割礼は男の子が生まれて8日目に行なう神の民としての儀式です。当然のことながら、赤ん坊はいつ生まれるか選べませんから、8日目が安息日に当たる場合もあります。では、その子は割礼を施す日をずらすのか。答えは否です。たとえ安息日であろうと、割礼を優先したのです。神のみこころは、安息日を守ること以上に、命を守ることにある、と理解されていたからです。であるなら、イエス様のなさった癒しはどうでしょうか。イエス様は肉体だけでなく、その心も魂も、いっさいを癒された。このことは神のみこころに適ってはいなかったのでしょうか。
 事の本質を見極めるということ。つまり、神のみこころに従うということが大事です。では神のみこころはどのように知るのでしょう。最近は便利なディボーションノートが売られています。そこには御言葉の解き明かしも、考古学的な知識も、私たちの生活への適応までもが載っていて大変便利です。便利過ぎて肝心の聖書すら必要がないくらいです。しかし、こうなると本末転倒ではないでしょうか。ユダヤ人教師たちは○○先生が言っていたからと胸を張ります。しかし、それは○○先生の解釈に過ぎません。注解書やディボーションノート、○○先生の教えはそれがどれだけ素晴らしくても、神の御言葉そのものではありません。それは大いに参考にすべきですが、それで結論付けると、それ以上の思考を停止してしまいます。神のみこころは、やはり神の御言葉に学ぶ必要があるのです。
 聖書を読む上で一つ参考になる読み方があります。それは全体から部分を読むという読み方です。聖書の一部だけを取り出しても、それは神のご性質のわずかな部分でしかありません。それだけで神様をわかったようでいることは明らかに間違いです。全体を通して神のご性質を学び、その上で部分を読む。イエス様の解き明かしの姿勢に私たちも習いたいと思います。

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