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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160925 ヨハネ7:37-53 「直接聞き、知った上で、判決を」

ヨハネ7:37-53 「直接聞き、知った上で、判決を」

 イエス様の言葉に対して様々な反応がありました。けれど同じイエス様の言葉への反応ですけれども、祭司長・パリサイ人たちと、その他の人々の反応は全く違います。群衆たちはイエス様を預言者と言い、またキリストと言い、そしてある人はそうではない。と評価しました。役人は「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」と言って、イエス様を捕らえずに帰ってきました。肯定的、否定的、様々な反応がありました。けれど、共通しているのは、彼らはイエス様の言葉を直接聞き、自らの考えで判断しているということです。この反応の仕方は正しいのです。律法は、「まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知った上でなければ、判決を下さない」であります。
 けれども、祭司長やパリサイ人はどうでしょう。7:32「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。」彼らはイエス様に直接聞くことなしに批判しているのです。彼らは群衆たちの噂を聞いて、群衆たちへの影響力を見て、批判しています。実は彼らにとっては、イエス様が実際にどういう人物かはそれほど重要ではありません。全ては自分たちの地位を脅かされるかどうかだけが気がかりだったのです。彼らはイエス様がガリラヤから来たから救い主ではないと決めつけます。けれど、ご承知の通り、イエス様が生まれたのはユダヤのベツレヘムでした。これは本人に問いただせばすぐにわかることです。けれど、彼らはそうはしません。噂を聞いて、確かめもせずに、憤っている。もともとが他人から聞いたあやふやな情報の上に、自分たちの都合を重ね合わせたのが、彼らの一方的な理解です。否定的な意見だから問題なのではありません。確かめもせず、一方的に決めつけて裁く。ここに問題があるのです。
 私たちの信仰について、世の人々の反応はまさしくこのようなものではないでしょうか。間接的に聞き、噂話を聞き、もうその時点で決定的な判断をする。私には関係がない。私には必要がない。あれは弱い人たちの心の拠り所だ。そう言って、確かめようともしない。私たちが少しでも神の名を出そうものなら、「あぁ、わたし間に合ってますから」。それが本当に、自分の人生に関わりのないものなのか。無意味なものなのか。来て、聞いて、よく知ってから判断すれば良いのにと思います。
 しかしこれは、私たちの内にもあるところではないでしょうか。都合よく聞いて、中途半端に知ったつもりで、それ以上何も理解しようとしない。理解しないどころか、誤解したままでしたり顔に相手をねじ伏せる。しかも私たちは、時に神に対してもそのようであることがないでしょうか。聞きたい言葉だけを聞き、都合の良い解釈をして、自分のために利用するのです。ニコデモの言葉が胸に刺さります。「聞いて、よく知って、判決をくだす。」私たちが聞けば、神は語っておられます。私たちが求めるなら、神はそこにおられます。問題は私たちが知ったつもりでいること。知ろうとしないことなのです。エレミヤ29:12-14a「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」

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