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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/04/19 創世記50:15-26 「赦しの再確認」

創世記50:15-26「赦しの再確認」

 父ヤコブを葬って、悲しみに浸る兄弟たち。その悲しみが一段落付きますと、次に彼らの心を捕らえたのは、弟ヨセフに対する恐れでした。「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」彼らはヨセフに対していつも後ろめたさを感じていました。ヨセフを前にするといつも過去の過ちが疼きました。なぜなら彼らは過去の過ちがきちんと精算されていないことを知っていたからです。
 双方の関係はヨセフからの一方的な赦しでした。ヨセフは兄たちの変化を十分に見定めて彼らを赦そうと決めました。ヨセフはこれまでの20年にしっかりと意味を見出しました。しかし、兄たちは違います。彼らはなぜ赦されているのかということがわからないままにいるのです。久しぶりに会ったヨセフは、過去の過ちに触れることをいたしません。手放しに自分たちを受け入れてくれます。しかし、それが逆に彼らの不安を掻き立てるのです。罪を糾弾されたほうがまだ安心するというものです。それだけのことをしたのです。なのに放置されている。彼らにしてみれば、ヨセフがいつそのことを言い出すかとヒヤヒヤだったのです。けれど、彼らから言い出すことはできません。ヨセフが忘れている可能性もあります。そうすれば藪蛇です。ですから、ヨセフの好意に甘えながらズルズルとここまで来てしまったのです。けれど父が死に、いよいよ彼らの不安はピークを迎えます。もはや、うやむやのままではいられません。彼らは自らの過ちに決着を付けなければならないのです。
 実はこれは、より本質的な、神との関係における罪についても同じです。罪というのは、決して曖昧には出来ない問題なのです。何となくごまかして生きるということはできません。それはその人の人生を重苦しい、後悔の人生へと変えてしまうからです。よく、神さまは全知全能なお方だから、何も言わなくてもわかってるでしょ。と言われる方がいます。心で悔いているのだから、それでいいじゃないかとです。しかし、それはどこかで曖昧さを残してはいないでしょうか。公にするということは不退転の決意を持つということです。それができないということは、どこかに、そこまでの変化を望んでいない自分がいるということです。ところが、それでは罪の問題は解決しないのです。確かに罪の赦しは宣言されました。しかし罪の責めから完全に解放されるのは、その罪が完全に明るみに出た時なのです。罪は闇の中で育まれます。罪の告白とは、さらけ出すということです。罪深い己の身を証としていくとき、初めて罪の責めから解放されることができるのです。
 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
 神の前に罪を告白をするということは、先程も言いましたように、不退転の決意を持つことです。それはどのように罰せられてもおかしくない。この身の処遇を神に委ねるということです。けれど、この告白にはすでに神の赦しが備えられているのです。ですから、これは罪の告白、悔い改めでありながら、赦しの確認でもあるのです。

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