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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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161009 ヨハネ8:1-11 「赦しの宣言」

ヨハネ8:1-11 「赦しの宣言」

 イエス様が宮で教えておられるところに、パリサイ人たちが姦淫の現場で捕らえた一人の女性を引き連れてやってきます。そしてイエス様に尋ねました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」嫌らしい質問ですね。石打ちを止めるようにと言えば、それは律法を蔑ろにすることですし、石打ちせよと言えば、それはローマ皇帝への越権行為とみなされます。どちらを答えようと窮地に陥ってしまう質問。そもそも、姦淫をした男性の姿が見えませんから、彼らもまた、まともに裁こうとはしていないのです。これはイエス様を陥れることだけを目的にした茶番劇でした。
 イエス様はこの一連の騒動には加わろうとはしません。しかし、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こして言われます。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエス様は再びしゃがみこみ、地面に書かれるのでありました。それまでの喧騒が止み、皆がそのことばを反芻します。そして自らの姿に恥じ、一人また一人とその場を去っていくのでありました。
 さて、注目したいのは、この後のイエス様と女性の会話であります。これまで出来事は女性を発端としながら、女性を無視して進められました。しかし、ようやくに私たちはこの女性に目を向けることができます。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」「誰もいません」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 誰もいません。しかしどうでしょう。誰もいないことはないのです。目の前にはイエス様がおられます。他の者がいなくなった後イエス様が石を投げつける可能性も無いわけではないのです。けれど、彼女は「誰もいません」と答える。つまり彼女は、イエス様が自分を罪に定めないと信じたのです。
 しかしです。実はこの場にはもう一人の人物がいます。他ならぬ彼女自身です。ですから「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」というイエス様の質問は、実に様々な意味合いを持っています。一つはあなたを糾弾していたパリサイ人や律法学者たちは今もいますか?という質問。そして、わたしはあなたを罪に定めると思いますか?という質問。そして、もう一つは、あなたはあなた自身を赦せますか?という質問です。
 実は、私たちを一番最後まで赦さないのは、他人でも、神様でもなく、他ならぬ自分なのです。他人との関係は言ってしまえば、逃げ出すことができます。赦されない関係ならそれ以上関わらないことも選べます。けれど、どこに行こうと、どれだけ時が経とうと、逃れられない関係がある。それは神さまと、自分です。誰一人神の前から逃げおおせる者はおらず、誰一人自分自身から離れることはできません。しかし、神はすでに御子の贖いをもって私たちを赦してくださったのです。厄介なのは後者です。私の過ちを、存在を、いつまでも責め続けるのは他の誰でもありません。私です。神が赦しても尚、赦せずに攻め続けるのは私なのです。
 しかし彼女は「誰もいません」と答えます。それはもう罪なんてどうでもいいという開き直りではありません。人々が去りイエス様だけになった時点で、彼女はそこから逃げ出すこともできたのです。けれど彼女はそこに留まりました。それは彼女が自らの罪に悔いている証拠です。彼女はイエス様に罰せられる覚悟で留まります。しかし、そこにいるイエス様を見て、彼女はイエス様が罰せられないことを知り、そして、彼女自身、赦されることを受け入れるのです。自己受容は本人の決断ではありません。それは赦しの結果です。けれどその結果に至らなければ、どれだけ赦されようと救いには至りません。神の赦しは、自己の赦しに結びついて救いとなるのです。自分を赦せないことが不信仰だとは言いません。それは時間がかかるものです。しかしその間は赦せない憎しみに縛られ続けるのも事実です。反省は大事ですが、否定する必要はありません。全ては神の最善に導かれています。私たちは神の赦しにもっと身を委ねて良いのです。

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