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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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161016 ヨハネ8:12-20 「世の光・キリスト」

ヨハネ8:12-20 「世の光・キリスト」

 イエス様はおっしゃいました。「わたしは世の光です」。日中、炎天下の下でろうそくを付けましても、あまり意味がありません。ろうそくの灯は夜の暗闇の中でこそ使うものです。つまり、イエス様が世の光とおっしゃるとき、わたしたちの生きるこの世の中は、闇に包まれているんだということを前提としているのです。
 人生の闇、先の見えない将来への不安について、私たちはこれを闇と呼びまして、恐れたりいたします。また、人間の心のうちにある負の部分、平気で人を憎んだり、裏切ったり、傷つけてしまう、そのような思いを社会の闇、心の闇と言いまして、やはり恐れたりいたします。いやそれどころか、時として自分自身がそのような闇にどっぷりと浸かってしまっていることが怖いのです。闇の中にずっといますと、だんだんと目が慣れてまいります。同じように、闇の世界にどっぷりと浸かっておりますと、自分自身が闇に犯されていることにも無頓着になってくるのです。誰かを憎んだり、妬んだり、陥れたり、人に巣食う闇というのは、本当に深く恐ろしいものであります。
 これら闇のような現実に対して、イエス様は「わたしは世の光です。」と言われる。この世界と世界の全ての人を照らす光として、私は来たのだと言われるのです。イエス・キリストこそが私たちの闇を照らし、正しく導く光です。この光は、すべての人を照らします。この光は、その人の人生を照らし、その正しい道を明らかにします。そして、この光はその人の心の内深くを照らし、その人の本当の姿を浮き彫りにするのです。
 主は私たちが心に抱く、その醜い闇を、誰に見せることもできないその隠された罪を、光の下へと照らし出すために来られました。そして私たちに罪を悔い改めさせ、その救いに招くために来られたのでした。
 そして、この光はこの世の闇に対して、圧倒的な勝利をもたらします。ヨハネ1:5に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに勝たなかった。」とあります。光と闇と言いますと、何か相対する2つのもののように思います。しかし、実際はそうではありません。闇は光に勝たなかった。比べ物にならない、圧倒的な勝利が光にはあるのです。暗い部屋の中でロウソクの火を灯すということはできます。しかし、明るい部屋の中で闇を灯すということはどうやってもできません。闇と言いますと、何か得体のしれない、化け物のような物があるかのように思いますが、闇の正体は光の欠如です。ですから光が現れれるところ、闇は必然と消えざるを得ないのです。光なるキリストは罪を滅ぼし、死に勝利いたしました。ですから、この方にこそ救いがあるのです。
 この光たるお方、イエス様が私たちを指して「あなたがたは世の光です。」と言われたということを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。闇に対して圧倒的な勝利をもたらす光なるキリスト。このイエス様と同じ例えを用いて私たちをご覧になられる主イエスの眼差しがあるのです。もちろん、私たちは自らが光を放つ太陽のようにはなれません。私の内には闇もある。汚れもある。けれど、私たちが光なるキリストを見上げて生きるとき、私たちはこの光で照らされる月のようにはなれるというものです。昔の人々は月や星明りを頼りに夜の海を航海したと言います。闇夜に輝く月は、それはそれは大きな道しるべです。ですから、たとえ自分自身では光を放つことができなくても、私たちは世の光となれるのです。罪人である私が、主イエスの憐みのゆえに今日を生かされる。弱い私が、今日という日を感謝して生きるなら、私たちは世の光です。自分の力を振りかざして、他人を蹴落として勝ち取る成功談ではありません。最も身近な大切な人にすら寄り添うことのできない不自由な私たちが、一日の終わりに後悔と恨みごとしか思い浮かばないような私たちが、主の十字架の恵みに照らされて、今一度感謝に引き戻される。そういう信仰の現実こそが、私たちを世の光として浮かび上がらせるのです。

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