FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

161127 詩篇74 「全能の神を慕い求めて」

詩篇74 「全能の神を慕い求めて」

 アドベントというのは待降節、救い主の到来を待ち望む期間のことであります。イエス様が来られる以前、人々はずっと救い主を待ち望んで来たわけです。では救い主を待ち望む人々の、いったいどのような心境だったのでしょうか。
 今日の箇所はアサフのマスキールとあります。マスキールとは教訓の歌という意味です。アサフという人はダビデによって任命された、礼拝に仕える音楽長の一人です。このアサフから代々その子孫たちは、彼の職を引き継いでいきます。それゆえ彼らの一族はアサフと呼ばれました。ですから、この歌はダビデの時代の歌ではありません。それよりもずっと後の歌。紀元前587年に起こった、バビロンによるエルサレム崩壊のときのことだと言われています。
 その時の記録がⅡ列王記25:1-15に記されています。ゼデキヤの治世の第9年の10の月から11年の4の月までの1年と半年もの間、人々は籠城して耐え忍びます。しかしやがて城内の食料は尽きていく。25:3にはたった一行「町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。」とありますが、実際は凄惨な様子であったことでしょう。城壁が破られ、敵軍が町中に流れ込むと、もはやユダヤに戦う力はありません。町を守るはずの戦士たちが、皆競うように逃げ出します。王の側近たちですら、王を置いて逃げ出す始末です。誰もが自分の命だけを惜しみ、他人を思いやったり、秩序を保つといった余裕はありません。ゼデキヤ王もまた脱出を試みますが、弱った体に、従う者もいない。彼はエリコの草原で捕らえられ、目の前で息子たちが虐殺されるのを見せられ、その挙句目をえぐり出されるのです。そして記録には「主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。」とあります。包囲する者のうっぷんを晴らすように、エルサレムの町ではどれほどの残虐行為、蛮行がなされたことでしょうか。主の宮も荒らされ、金銀青銅、あらゆるものが奪い去られていきました。
 詩篇74篇は、そのような亡国の様子を歌っているのです。9節には「もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も、私たちの間にはいません。」とあります。詩人の絶望が伝わってきます。神の民が蹂躙される。それは神の不在を思わせる十分な出来事です。昔は確かに、神はおられた。けれど、今は、もう神はいない。そのように絶望しておかしくない。そういう場面なのです。
 けれど詩人は絶望の中で、尚も主なる神を頼って声を上げるのです。「神よ。なぜ、いつまで」この言葉の背景には、神の内には救いがある。神が立ち上がれば、誰も逆らうことはできない。神が心に留めてくだされば、御手を差し伸べてくださるなら、私たちのことを少しでも思い起こしてくだされば。そこにはたしかな勝利がある。どれだけ絶望の中に置かれようとも、尚、希望を失わない。という確信があるのです。
 目の前の過酷極まる迫害の中、見えない神を見上げて耐えるということは、愚かなことでしょうか。いえ、そのような現実の中でも、尚も希望を見出すことのできることの何と幸いでしょうか。私たちはどのような暗闇の中でも、どこにも出口のないそのようなときにも、尚も、天を見上げることのできるのです。もし、信仰がなければ、もし、神が死んだ神ならば、私たちは今日という日を耐えることはできないでしょう。絶望は絶望でしか無い。そこにはもはや何の希望もありません。けれど、私たちの信じる神は今日も生きて働かれる神です。世の中がどれだけ私たちの手足を縛っても、私たちの心を縛ることはできません。どれだけ状況が悪化しても、私たちの希望を奪い去ることはできません。主なる神は必ずやって来て、私たちを救い出して下さる方なのです。

コメント

非公開コメント