FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

161204 詩篇84 「主の大庭を恋い慕って」

詩篇84 「主の大庭を恋い慕って」

 コラの一族は、主の宮の門番や歌うたいとして仕えた一族です。彼らは主の宮の門に立ち、日がな、主の宮にやって来るたくさんの巡礼者をねぎらい、向かい入れました。この詩がどの時代によるものかは様々に説があるのですが、例えば、バビロン捕囚によって、主の宮に来たくても来れないユダヤ人がいたことでした。異国の地で、しかし、思いだけは主の宮に向けて。ですから、たとえ異国の地であっても、ユダヤ人の家は遠くエルサレムに向けて大きな窓が開いていたと言います。主の宮に訪れる巡礼者たちは、そういった仲間たちの期待やら何やらを共に背負って来ている者も少なくないわけです。だから彼らは、主の宮を前にして、万感の思いです。そして、コラの子はそんな者たちの様子を歌っているのかもしれません。
 「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」主の宮に集うこととは、実に感動と喜びをもたらすことなのです。ふと見上げますと、宮の軒下に雀やつばめたちが巣をつくっておりました。何の妨げもなく、自由に宮に出入りする鳥たち。主の宮を我が家とし、主の御手に育まれる鳥たち。そのような鳥を見ながら、一方で、異国の同胞たちを思います。様々な事情で、ここに来ることがかなわない同胞たち。主の宮に集うことを願いながら、しかし、そこに留まり、祈りにおいて主を礼拝する仲間たち。病により、動くに動けないでいる兄弟姉妹たち。自らの罪ゆえに、主の前に出ることに躊躇して踏み出せない者たち。この世の様々な価値観の中に埋もれて、主の宮を忘れてしまった人々。色んな状況の中に置かれたあの人この人を思いながら、尚も、この場へと導かれ共に主を礼拝できることの何と幸いなことかと思うのです。
 しかし、それは単なる物理的な教会のみを指しているのではありません。私たちは今や、聖霊が内住する主の宮とされたということを忘れてはなりません。私たちは人生において、涙の谷を歩むこともあります。涙の谷とは不毛の地、枯れ果てた地です。どれだけ潤うことを願っても、流れ出る水を見つけることがかなわない。いつも自分の心を擦り減らしながら、歩まなければならない。そういう土地です。どこまで、いつまで我慢すれば、この心は潤うのか。しかし、詩人は言います。「そこを、泉のわく所とします。」とです。「その心の中にシオンへの大路のある人」つまり、天の御国への道を確かに持っている人です。信仰の窓を主の宮に開けて、祈りの声を上げる人と言っても良いでしょう。そのような人は、泉を見つける。他のどこでもない。その所が。とこう言っているのです。
 サマリヤの女に語られたイエス様の言葉が思い出されます。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」コラの子たちが歌った希望は、イエス様の到来によって実現するのです。雀やつばめのように、何にも妨げられることなく、自由に神を礼拝する。私たちに許されたこの特権のなんと幸いなことでしょうか。「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。」

コメント

非公開コメント