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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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201202 エレミヤ52:1-16 「主の言葉に従う者が神の民」

エレミヤ52:1-16 「主の言葉に従う者が神の民」

 51章の終わりに「ここまでが、エレミヤのことばである。」とあります。ですから、52章はエレミヤによるものではなくて、エレミヤ以外の人が付け足した記述だということです。では、なぜこのような記述が付け足されたのでしょうか。それはエレミヤの預言の結末を記す必要があったのはないでしょうか。この章は、第二列王記24:18-25:30とほぼ同じ内容が記されています。おそらくは第二列王記の記述を引っ張ってきてエレミヤ書の終わりに付け足したのだと思われます。ここには、エホヤキン王が囚えられて37年目のことが記されていますから、この付け足しがされたのも、それ以降ということになります。つまりこれを読む民はバビロンで捕囚生活を送っていたということです。著者は今の困難な捕囚生活に耐えている民たちに、この原因が単なる戦争に破れた。軍事力が劣っていたということではなくて、エレミヤの預言に一向に耳を傾けず、神に背を向けて、傍若無人な態度を取り続けたことの結果であることを記しているのです。

 さて、主の預言者エレミヤは、バビロンに従うことが主の御心であると訴え続けました。そして、図らずも、若き王エホヤキンはバビロンに捕囚され、その地で手厚い待遇を受けることとなります。52:28以下です。彼はその地で子孫を設け、やがてその子孫からゼルバベルが起こり、エルサレム帰還を果たすこととなります。一方、バビロンからの独立を目指して画策したゼデキヤの末路はどうだったか。彼の最後は悲惨なものでした。自分の息子たちの死を最後に、彼の視界は完全に奪われます。彼は息子の死の記憶を目に焼き付けて、残りの生涯を過ごすことになるのです。
 二人の王に従う者たちの末路も同じでした。エホヤキンと同じく、捕囚された民はバビロンで生き伸びます。そして異国バビロンの地で、真の神への信仰が受け継がれるのでした。エゼキエルやダニエル、エステルやモルデカイと言った人々は、全て捕囚の地の信仰者でした。けれど、ゼデキヤ王と共に、この地に残った民はどうだったでしょうか。エルサレム帰還を果たすユダの民を最も毛嫌いし、敵対したのはこの残りの民でした。彼らの内に、正しい信仰は引き継がれませんでした。
 ユダの国は信仰こそがそのアイデンティティです。たとえ国を追われようと、信仰を引き継ぎ、神とともに歩む時、そこがどこであれ、彼らは神の民イスラエルでした。しかし、その地に留まり、神を忘れて過ごす時、彼らはすでにイスラエルではなかったのです。エレミヤの預言は一貫して「カルデア人のところに出て行く者は生きる」(38:2)というものでした。主の言葉に従う者が神の民なのです。
 国とは土地ではありません。民です。キリストの国は信仰者の群れです。地上における教会です。この交わりと共に歩むことが大事なのです。

201129 イザヤ9:1-7 「希望をもたらす主」

イザヤ9:1-7 「希望をもたらす主」

 今年は新しい手作りのアドベントクランツを用意していただきまして、ロウソクを灯しています。このアドベントクランツのロウソクにはそれぞれに意味がありまして、一つ目のロウソクは「希望」。二つ目は「平和」。三つめは「喜び」。四つ目は「愛」を意味しているのだそうです。つまり主のご降誕によって、この地に希望、平和、喜び、愛がもたらされる。今日は第一主日ですので、希望の火が点っているわけです。イエス様の誕生。それは人類に希望をもたらす光だと言うことです。
 イザヤ書9:6の御言葉は救い主誕生についての最も有名な預言と言っても良いかと思います。この預言がユダ王国に語られたのはイエス様誕生の700年以上も前のことです。ソロモン王以降たもとを分かれた北イスラエル王国がいよいよアッシリアによって滅ぼされる。そしてその後、このアッシリアの侵略の手はユダ王国にまで伸ばされていくのです。あれほどまでに競い合い苦汁をなめさせられたイスラエルがいとも簡単に滅ぼされていく様子をユダの民は見ていきます。同じ神を信じたはずの国。ダビデ王国の歴史を共に持つ国がいとも簡単に滅ぼされる。誰もが、次は我が身かと恐怖に身を震わせたのです。神様なんて言ってられない。祈ってる場合じゃない。現実の困難に目を開かなければ。北の大国アッシリアと南に君臨するエジプトに挟まれて、ユダの国は右往左往、綱渡りのような外交でこの難局を乗り切ろうとします。具体的には、ヒゼキヤ王の時代。アッシリアの王セナケリブが次々とユダの町を征服し、ついにエルサレムまで包囲されるという窮地に陥ります。ヒゼキヤ王を初め、皆がエジプトに援助を求めることを良しとします。けれど、イザヤだけははっきりと言いました。北でも南でもない。天に寄り頼めであります。イザヤの力強い預言にヒゼキヤ王がひざまずいた時、御使いにより一夜にして18万5千人のアッシリア兵が討たれて、ユダは窮地を脱したのです。
 イザヤの力強い言葉の根拠。それこそが、先立って与えられた救い主の預言です。救い主が来られる。だから天に寄り頼めなのです。今は救いが無いように見えるかもしれない。今は闇の中に感じるかもしれない。けれど「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。」とあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。」と言われています。だから、信じて留まろう。神に寄り頼んで耐えよう。これが彼らの合言葉だったのです。
 イエス様が誕生される時代、大国の支配から独立して100年続いたハスモン王朝が、ローマと、その後押しを得たヘロデによってかすめ取られてしまいます。ヘロデは王国の各地で巨大な建造物を築き、その莫大な費用を民から徴収します。きらびやかな王宮や神殿が建てられ、各地から巡礼する者が訪れ、エルサレムにそびえ立つヘロデの神殿は世界にその名を馳せます。けれど、その足元では貧困に喘ぐ無数の民が生まれたのです。神殿の周りには物乞いたちが並び座り、町の外には追い出された人々の集団がそこかしと暮らします。ユダヤは再び闇の中をさまよいます。そのような困難の中で、人々は救い主の誕生を待ち望みます。一夜にしてアッシリア軍を滅ぼされた神が、ひとりの男の子を与え、その子に主権を与えると語られたからです。北でも、南でもない。天を寄り頼め。イザヤの救い主誕生の預言は、時代を超えて、出口のない闇にさまよう全ての民の希望となって輝くのです。
 私たちがイエス様を信じているから、コロナウィルスにかからないということではないでしょう。天を見あげていれば、困難が立ちどころに消え去るということではないでしょう。世の中には不条理がいっぱいです。けれど、だからこそ、その暗闇の中で私たちはイエス様という光を見るのです。なぜなら不条理に思うその中をイエス様も立たれたからです。キリスト者は病気にかからないわけではありません。困難に合わないわけでもありません。けれどその困難の中で、私たちは罪から離れる手立てを知るのです。義のために生きる術を手に入れるのです。現状を嘆いて腐るばかりであった私たちが、そのところでイエス様と言う希望を見ることができます。そして遂にはその困難すらも感謝することができるのです。
 大事なのは問題の渦中にも主の希望を見つめるということです。なぜなら生きている限り問題は無くならないからです。一つの問題が去っても、また一つ。罪の世の中に生きるとはそういうことです。けれど私たちはやがて新しい地を踏むのです。ですから、もちろん問題の解決に私たちは奔走しますけれども、それと同時に、その渦中にあってキリストと共にある幸いを見出したいのです。

201125 エレミヤ51:1-19 「前もって語られる希望」

エレミヤ51:1-19 「前もって語られる希望」

 50章から、いよいよバビロンに向けた預言が語られます。その内容は、北のペルシャによる侵攻。ユダを討つための器とされたバビロンは、同様にペルシャによって討たれることが預言されるのです。50:18-20「見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその地を罰する。わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる。その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
 主の鉄槌として用いられたバビロンが今度は滅ぼされる。何か、この預言を読むと、気の毒に思うかも知れません。神様は散々利用して、必要がなくなったら捨てるのか。と、こう思うかもしれません。けれど、もちろん、そうではありません。50:23-24「全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ、どうして国々の恐怖のもととなったのか。バビロンよ。わたしがおまえに罠をかけ、おまえは捕らえられた。おまえはそれを知らなかった。おまえは見つけられて捕まえられた。【主】に争いを仕掛けたからだ。」とあるとおりです。つまり、バビロンもまたユダと同じなのです。50:41-43は6:22-24とは宛名が違うだけで、その内容はほぼ同じものです。主はバビロンに取り分けひどい扱いをしているわけではありません。主の器として選ばれた民は、主に従うことで用いられるのです。もしも主の器なる民が主に争いを仕掛けるなら、そこに主の裁きが用意されることは当然です。バビロンが滅ぼされるのは、彼らの高ぶりによるものです。彼らは滅ぼされるべくして滅んだのです。しかし同様に、今、ユダとイスラエルの救いが預言されているように、そこに心からの悔い改めがあれば、主はその者の罪を赦されるお方でもあります。それは同様にペルシャにも当てはまるし、マケドニアにも、ローマにも、アメリカにも当てはまります。もちろん私たち日本にも、教会にも当てはまる真理です。
 51章でも同様に、バビロンの滅亡について語られています。バビロンは特別の扱いを受けているのではありません。すべての国はバビロンと同じです。主の器であることを止めるとき、主の裁きと憐れみがあるのです。さて、このバビロンに向けた預言の中で、主はイスラエルとユダに言葉をかけられます。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。」「私たちはバビロンを癒やそうとした。だが、それは癒やされなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう。」それはやがて起こるバビロンの滅びとバビロン捕囚からの帰還についてです。
 この預言が語られているのはいつのことでしょうか。51:59以降を見ると、それはゼデキヤ王の治世第4年とわかります。この頃、まだユダはバビロンに反逆する前でした。幾度かの捕囚はあれど、まだ最終的な滅びの前。(実は周辺諸国の王がエルサレムに会して、バビロンへの謀反を相談した年であります。)王と共に宿営長セラヤは、使節の一人としてバビロンを訪れます。その時、このバビロンに向けられた預言が巻物とされて、セラヤに渡されます。セラヤとはエレミヤの書紀バルクの兄弟のセラヤです。エレミヤは彼に命じます。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、こう言いなさい。『【主】よ。あなたはこの場所について、これを滅ぼし、人から家畜に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てた地とする、と語られました。』そしてこの書物を読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、こう言いなさい。『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。』」(51:62-64)
 この後、ユダはバビロンに反逆して失敗し、セラヤはゼデキヤ王と共にバビロンに捕囚されることとなります。国を滅ぼし、国土から引き離され、敵地へと向かわされることとなる。けれど彼が抱えた巻物は、その敵地バビロンの滅びを宣言し、ユダの帰還を宣言しているのです。現実とは遠くかけ離れた主のことば。しかし、この言葉こそが、彼らの希望。遠くカルデヤの地で、信仰に堅く立つための拠り所となっていくのです。エレミヤは言います。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、こう言いなさい。」巻物は敵地にあって開かれます。希望の言葉は絶望の中に語られます。ダニエルに見られるように、ユダヤの民はバビロンという圧倒的な支配の中で、「それぞれ自分の土地へ帰ろう」という合言葉を支えに、自らの信仰を守り通していくのです。

201122 ルカ5:27-32 「罪人を招くため」

ルカ5:27-32 「罪人を招くため」

 当時ユダヤはローマ帝国の属領となっていました。ここガリラヤの統治は、ヘロデ・アンティパスに委ねられてましたが、地方の租税や関税に関してはローマが取り仕切っていました。ですからユダヤ人からすると、本来神に捧げられるべき献金が異邦人に巻き上げられているという感覚です。そして取税人はユダヤ人でありながら、その手足となって働いているために、売国奴として大変嫌われておりました。もちろん取税人はそれを承知でなっています。つまり、人々からどう思われようとも、手っ取り早く巨万の富を築ける取税人に自ら志願した者です。この取税所に座るレビもまたそのような人物でした。レビがどのように取税人になる道を選んだのかはわかりません。しかし、そのようにお金にすがろうとする人たちの行き着くところは明らかです。それは空しさです。金持ちになれば幸せになれると考えて、がむしゃらにお金を稼いで、時には人に言えない汚い事もして、いざ金持ちになったときには、周りに誰もいない。かろうじているのはお金を目当てに群がる人ばかり。彼は欲しい物は全て手にすることができますが、信頼できる友は決して手に入りません。それだけに一層のこと、空しさを感じるのです。
 私には、生気なく虚ろな目で、淡々と仕事をこなしているレビの姿が目に浮かぶようです。誰も声をかけてくれない、誰も話を聞いてくれない。まるで自分が透明人間にでもなったかのように、周りの人は自分の存在を無視して生活をしています。唯一人々が自分の存在を認めるのは、税金を徴収するときに浴びる憎しみの視線のみ。彼の心は不安と恐怖と悲しみで満ちていたことでしょう。イエス様はこのレビの心の闇を見たのです。
 イエス様はレビに声をかけます。「わたしについて来なさい。」自分にかけられた声とは一瞬わからなかったでしょう。不安げに視線を上げてみると、そこには自分をまっすぐに見つめるイエス様の眼差し。全てを見透かしているその目は優しさと慈愛に満ち、何より私を信じて疑わない。これこそが彼が求めて止まなかったものでした。レビは一瞬で心を奪われます。彼はその場で立ち上がって、イエス様について行きました。
 彼がイエス様の声に応えて立ち上がったということは、何気ないようでいて、実は凄いことです。これより前ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの召命の場面を見ました。彼らもまた網を置いて、従いました。しかし漁師ならまた戻ることができます。その時は網を置き、家族を置いて従おうとも、帰ろうと思えばいつでも帰ることができます。けれど、レビはそうはいきません。彼は役所勤めの取税人でした。いったん職場を離れた取税人に再び仕事復帰などあり得ません。彼の後釜はすぐにでも補充されるのです。今ここで立ち上がると言うことは仕事を失う事です。それは、自分の拠り所、最後の武器であるお金を稼ぐ手段を失うということです。もう二度とここには戻れない。そういう不退転の覚悟を持って、彼はイエス様の言葉に応えたのです。
 主に従う。クリスチャンになるということは、実はこういうことです。今握り締めているものを手放し、拠り所としている所を主にお返しすること。しかし、これはより確かなものを手にするためです。彼はこの後、自分のかつての仕事仲間に、イエス様を引き合わせるための歓迎会を開きます。そのために、あれだけ頼りとしていた大金を惜しげもなく使って、大判ぶるまいをします。それは彼が必死になって貯めたお金です。彼が唯一頼りとしてきたものです。しかしそれはもう唯一の物ではありません。彼は今救い主というお金以上の頼りを得たからです。
 ところが、そのような麗しい食卓を険しい目で見る人々がおりました。例の如くパリサイ派や律法学者たちです。彼らは律法を用いて、人々を分離しました。汚れている者たちを神の祝福から分離することに躍起になっておりました。そうやって罪人と見なされる人々を分離することで、自分たちが聖い者だと誇ったのです。しかし、イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」人々から分離され、除け者にされたその人こそ招くためと言うのです。だから、このイエス様にあっては、どのような者でも「私のような罪人は赦されるはずがない」とあきらめなくても良いのです。あなたのような罪人のためにこそ、イエス様は来られたからです。

201118 エレミヤ47 「他岸の火事とせずに」

エレミヤ47 「他岸の火事とせずに」

 46章から諸国の民についての主のことばが語られており、46章はエジプト、47章はペリシテについてです。
今日の箇所はわかりやすいようで、分かりづらい。そういう箇所であります。書かれている内容は極めて単純です。ペリシテに北からの水、すなわちバビロンが洪水となって溢れ出す。バビロンによるペリシテの滅びを預言している箇所です。
同盟国アッシリアを支援するため、カルケミシュでバビロンと対峙(b.c.605)したエジプトのファラオ・ネコですが、この戦いでアッシリア・エジプト連合軍は敗北し、エジプトはカナン地方での影響力を失い、アッシリアは滅亡(b.c.605)いたします。北のアッシリアが滅べば、その次はユダとペリシテです。翌年(b.c.604)にペリシテは5つの町を次々と攻略され、最後にガザとアシュケロンが落とされて滅亡を迎えます。ですから、エレミヤの預言はこのペリシテの滅亡についての預言がなされているのです。その滅びは徹底したもので、カナン地方だけのことではなく、彼らの元々の起源にあったるカフトル島(クレタ島)にまで言及しています。その時、ペリシテの民は「ああ、【主】の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」と嘆くことですが、預言者の返事は「どうして、休めるだろうか。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸、そこに剣を向けられたのだ。」という無慈悲なものだと言うのです。
 さて、内容的にはこれだけです。ペリシテのこれからを預言する内容。歴史を知る私たちは、この記録に何ら疑問を生じません。なるほど。そういう歴史を辿ったか。と理解するのみです。分かりづらいのは、ここから私たちが何を学び取るかということです。
 そして、それはイスラエル・ユダヤの隣国として、常に神の民の浮き沈みを見てきたペリシテが、北イスラエル王国の滅亡を他国のこととして見て見ぬ振りをしてきた結果としてあるこの預言だと言うことを見るべきでしょう。北イスラエル王国がアッシリアによって滅んだのはb.c.722年のことです。アッシリアの移住政策によって、イスラエル人の捕囚がなされますが、サルゴン2世の功績を記した碑文によるとその数は2万8千人に上ったと言います。国が滅び、民が連れ去られる。その恐ろしい出来事の原因が、主なる神に対する不信仰にありました。
 実はペリシテの滅びを預言したのはエレミヤだけではありません。イザヤもエゼキエルも同様です。特にイザヤはエレミヤ、エゼキエルの前の世代の預言者です。ペリシテの民もまた主からの警告を受けておりました。けれど、彼らはそれを他岸の火事として無視したのです。自分たちには関係ないと高を括ったのです。その結果、彼らは滅びに至ることとなりました。
 このことは私たちに極めて大事な指摘をしているのではないでしょうか。私たちは私たちに向けられたあらゆる主の声をあまりにも簡単に見過ごしてはいないでしょうか。他人の滅び、他人の失敗、他人への主の警告をあまりにも簡単に、他人事としていることではないでしょうか。同じことが自分にも当てはまると、同じ警告が自分にも向けられていると注意して受け取ることはできているでしょうか。アッシリアの民は、北イスラエル王国の滅亡を鼻で笑っていたのです。むしろ歓迎していたのです。うるさい国が滅んだ。ざまあ見ろ。という具合です。自分たちは同じ危険に会うはずがないと根拠のない自信があったのです。けれど、それは余りにも都合が良すぎる考え方です。主の裁きは平等です。だからこそ主の救いも平等なのです。私たちは他人の滅びを見て、自分じゃないから良かったと見過ごすことはできません。主の言葉を他人にだけ当て嵌めて自分を吟味しないのは間違いです。主はあらゆることを用いて私たちに語り掛けています。私たちは色々な場面で、本当に自分は大丈夫なのかと問いただすことが必要です。そしていつもその根拠を確かにしておくことが必要です。私たちは私たちの内にではなく、私たちのために犠牲となられた主イエスのゆえに大丈夫だと言うこと。それは私たちが誇って笑うことではなくて、私たちがひざまずいて感謝することです。